散髪屋の息子であるということは、お父さん以外の人に頭を刈ってもらわらないということです。
家が駄菓子屋の子供は、自分のうちで売っているお菓子はいくら食べてもいいのでしょうか。まさか食べ放題ということはないでしょう。友達とつきあっているうちに、よそでお菓子やファストフードを買って食べるということはあると思います。農家でも、よそで野菜を買ったりすることもあるでしょう。自分の家の商売で、自分の必要がまかなえるのは、もっとずっとたまに、せいぜい一年に両手で数えられるくらいしか、必要にならないたぐいの商売だと思うのです。家具屋や、医者や、電気屋や。もっとも、電気屋の場合は自分のうちで取り寄せるよりも、もしかしたら、そのあたりの量販店で買ったほうが安い、なんてことがあるかもしれません。政治家の息子だと、さあ、これはどうでしょう。父親にわがままを言うだけで、橋ができたり道が良くなったりするでしょうか。だとしたら、僕は政治家の息子に生まれたかったと思います。
とにかく、散髪屋も、そういう商売のひとつです。だから僕は生まれてからずっと、お父さんに髪の毛を切ってもらっていました。平日の夜おそくや、学校の休みの日の朝はやく、お客さんがこないうちに、お父さんに髪を切ってもらうのです。それでも、ときどき、運悪く、途中でお客さんがくることもあります。そんな場合は、やっぱり客さんを待たせるわけにはいきませんから、刈っている途中の、中途半端な髪形のまま、ざっとブラシをかけて切りくずをはらいおとして、とりあえずおしまい、となるのでした。もちろん、お客さんの散髪がおわったら、また続きをしてもらえるのですから、おとなしく待っていればいいようなものですが、なにしろ子供ですから、そのまま友達と遊びに行ったりしていました。よその人は、あの子はなんだろう、あんな頭で、と思ったに違いありません。
お父さんは、よく僕の頭を、むずかしい、散髪のしにくい頭だ、と言ったものです。頭の形が、あまりかっこうよくないので、髪の毛の切り方でなんとか見栄えがするようにしたいのだが、そのうえ僕はかなりの癖っ毛なので、それがとても難しいのだそうです。なにしろ僕は、長い間よその散髪屋で頭を刈ってもらったことがなかったので、これが本当なのかどうかよくわかりませんでした。難しいことを、いまやってやっているんだぞ、という、お父さんのちょっとした、気取りだったのかもしれません。それに、頭のかたちというのは、どちらかというと、僕よりもお父さんやお母さんのせいだと思うのです。受け継いだ遺伝子と、赤ん坊の時の寝かせ方ですよね。
中学生や高校生のときの僕は、今から思うと夢のようですが、なにしろ毎日早起きして、夜遅くまで勉強(というか、その)しているものですから、いつも魂が眠りのふちにあって、散髪してもらったときなど、ひとたまりもなく眠ってしまっていました。散髪屋で寝るというのは、みなさんするのでしょうか。僕は、なにしろ自分のうちですから、安心して眠ってしまうのですが、あれは気持ちがいいものです。頭の周りでハサミの音がぱちぱちとしている中で、うつらうつらするというのは。ただ、お父さんはそれでも僕にいろいろと話しかけてくることが多くて、僕はできるだけ返事をしようと思っていましたから、いつも、眠っているのか起きているのか、最後には自分でもよくわからなくなってしまうのです。
そうして、散髪の最後になると、いつもお父さんは、僕の頭を、ぐ、とつかんで、ぐいぐい、とマッサージをします。そんなとき、お父さんは決まって、おお、柔らかい頭だ、と言うのです。若いから、まだ柔軟な考えができるということだ、なんて言うのですが、僕は、頭の中身の柔らかさと、頭の外身の肌の柔らかさを一緒にされてはかなわない、といつも思っていました。それに、お父さんはえらい握力の持ち主で、そうされると、頭が痛くなるのです。
でも、お父さんは、そういう頭の持ち主は禿げたりしないんだ、と請けあってくれて、僕が自分の未来についてすこし安心したのは、ほんとうです。
大学生になって、親元を離れた僕は、そうそうお父さんに髪を刈ってはもらわなくなりました。そのためだけにわざわざ帰省するなんてことはできないですから。そして、お盆や正月に帰ったときだけは、閉まっている店でお父さんにまた髪を刈ってもらうのです。
散髪屋の息子であるということは、散髪の途中、お父さんと会話する機会があるということです。
僕は、いつもそうしてきたように、散髪の間ずっと、お父さんといろんなことを話しました。最近の生活は、どうか。大学はどんな様子なのか。友達はいるのか。無茶に酒を飲んだりしていないか。お互いに、散髪の間中は逃げ隠れできないので、僕は昔から、お父さんに聞かれたことなら、なんでもつつみ隠さず話すことにしていました。もっとも、最近の授業で、可が五つもあったことは、聞かれなかったので内緒にしていましたが。お父さんの方はというと、なにしろ散髪屋なのでそういうことはよく知っているのですが、どこそこのお嬢さんが結婚しただの、どこそこの坊主がなんとかいう会社につとめはじめただのという話を、するのです。
そして、お父さんは、散髪が終わり、髪の毛の切りくずをブラシで払ってから、僕の頭を、ぐ、とつかんで、言うのでした。ああ、お前の頭も、だんだん硬くなってきたなあ。僕は、頭の外側のことだろうか、内側のことだろうか、と少し考えてから、どちらにしても嫌だなあ、と思うのでした。