静寂の音

 音は、秒速約三三〇メートルで空気中を伝わる。誰でも知っているように、この速度は確かに速いが、無限ではない。よく例に出される、雷の光と音がずれているという話は、なにしろ天空のどこで雷が光っているのか実感としてよくわらかないわけなので、いまいち例として適当ではないと思うのだが、他にも、爆音がして空を見上げると音よりもずっと先を飛行機が飛んでゆくのが見えたり、遠くにある工事現場を見ていると、杭を打ち込む、かん、という音とハンマーの上下がちょうど反対になっていたりしてユーモラスだったりすることで、このことはよくわかる。

 そういえば、野球を球場に見に行くたびに気になっているのだが、野球場の端と端では音速にして半秒くらいの時差があるはずである。よく演奏されている応援歌は、この時差をどう処理しているのだろう。音楽において半秒というとかなり長い。左翼スタンドにいるトランペット奏者が、右翼にいる別の奏者の演奏を聴いてそれに合わせたとすると、右翼の奏者には、左翼の奏者が一秒ほども遅れてついてきているように聞こえるはずなのである。どうやって同期をとっているのだろうか。そして、我々はどっちかに合わせて応援して大丈夫なのか。

 この音というのは、物質を作る分子同士の結びつきの強さ、密度、個々の分子の重さなどによって伝わる速さが変わるのだが、一般に空気中よりも液体や固体の中の方がはるかに速く伝わる。海水中は空気の五倍弱、コンクリートでは一五倍にも達する。普通の土については土質にもよるためはっきりしないのだが、この中間のどこかだろう。我々も野球場で、地面に耳を当ててリズムを取れば、手拍子のずれは気にならないほど小さくなるにちがいない。来年はぜひやろう。

 寒さいまだ厳しい二月。長い夜を過ごしている彼は、ある音に悩まされていた。いつのまに始まっていたのか、昼間は気がつかなかったのだが、夜になっていざ寝ようとすると、とたんに気になりだしたのである。

 とおく、遠くから聞こえる、ずん、という音。床を伝わって、どこかからやって来る、正体不明のこの物音。しばらくしてまた、ずん。忘れた頃に、ずん。いつまでも続く、ずん。

 畳敷きの上に直接布団をひいて寝ている彼の、枕と床の距離は近い。ちょうど忍者が地面に耳を当てて追っ手の足音を聞き取ろうとするようなもので、どこか遠くの音が響いてきているのだろう。彼は、眠れないまま、枕元の目覚ましを目の前に持ち上げて、音の間隔を測ってみた。ずん。いち、に、さん、し、ご、ろく、ずん。いち、に、さん、し、ご、ろく、ずん。一分ほどそうやっていた彼は、どうやらだいたい七秒前後でこの音が繰り返されているらしい、ということを理解した。そして。

 そして、いや、どうすることもできない。結局のところ我慢して寝るしかないのだ。いち、に、さん、し、ご、ろく、ずん。いち、に、さん、し、ご、ろく、ずん。ずんを数えているうちに眠れるかと思ったがそうでもないらしい。七秒というのは微妙な間隔であって、意識がすっと眠りに落ち込もうとするちょうどそこを狙って次のずんが来る、といったリズムなのである。

 結局明け方にちょっとうとうとしただけで、気がつくと朝、起きる時間になっていた。全く眠った気がしない。あきらめて布団の上であぐらをかいた彼は、本当に、いったいなんだったのだろう、と思った。音は、どうも床下からやってくるようである。彼の部屋はアパートの一階で、床下といえば(見たことはないが)すぐ地面のはずである。
 床下を、誰かが掘り抜いているのだろうか。金庫室めがけてトンネルを、って「赤毛連盟」ではあるまいし。彼のアパートの裏には銀行などない。
 床下で、今まさに断層がずれはじめているのだろうか。大地震の前触れとして。ひょっとしてそういうこともあるかもしれないが、こんな音がするものではないだろう。
 マッドサイエンティストや異星人や地底人がなにか。話としては面白いかもしれないが、現実的ではない。だいたい、何かってなんだ。
 どこか遠くで、くい打ち機が工事をしているのか。その辺りの解釈が妥当だろうが、難点を言えば、夜中に工事をするというのもおかしな話ではある。

 答えは出ない。ぐったり疲れたまま身支度をして、部屋を出た。玄関のところを、いつものように管理人さんが掃除をしている。そういえば、彼の部屋の隣は管理人さんである。顔を合わせたら挨拶をするぐらいには管理人さんと親しい彼は、ちょっと思い付いたんだけど、という調子で、それとなく探りを入れてみることにした。
「おはようございます」
「あら、おはようございます。いいお天気ですね」
「ええ、今日は暖かくて。そういえば、昨日は、参っちゃいましたよね、一晩中」
「えっ」
「僕が神経質すぎるのかもしれないんですが、ずっと、どこかから音がしてたじゃないですか、ずん、って」
「ああ、はいはい、そういえば」
 彼は、管理人さんのその言葉に、かなりほっとした。ひょっとして、まあそんなことはあるまいとは思ったのだが、あの音が遠くからではなくて、彼の部屋のまさに床下からだったり、いっそ彼の頭の中でだけしている音ではと彼はひそかに恐れていたのである。そうだとすれば確かにこれは身の毛もよだつ話だが、とりあえずその心配だけはないらしい。

「どこかで工事でもしてたんでしょうか。気になって、結局一晩眠れませんでしたよ。何でしょうねえ、あれは」
 と言いながら、目をこすってみる彼。管理人さんは、にっこり笑って、言った。
「春の足音、じゃないですかねえ」

 つまり、そんなちょっといい話。


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