ぼくらの世界観

 宇宙の歴史に比べれば、それほど前ではない昔。まだ私が月に三本もゲームを買っていたころ。毎月読んでいたゲーム情報誌の新作ゲームの紹介に、必ずと言っていいほど使われていた単語があった。
 そもそも、この手の雑誌の記事の言葉使いときたら、技術がないのかやる気が無いのか、とにかく芸の無いものが多く、特に「裏技」系のページ、つまりこれはゲームの隠しコマンドやバグなどが載せられるコーナーのことだが、ここの文章の色気の無いこと画一的なことと言ったら、あらかじめテンプレートがあってそこにゲーム名と情報をはめ込んで完成させているのではないかと疑ってしまうほどだった。私がいつも気になっていた「世界観」という言葉もそういう、やたらめったら多用されていた決まり文句で、出くわすたびにいつも私はなにか引っ掛かるものを感じていたものである。

 ゲーム紹介における「世界観」という言葉は、要するにそのゲームの中の世界がどんなものであるか、という意味で使われていた。魔物が攻めてきて世界が滅亡の縁にあったり、飛行艇が飛んで世界のバランスが崩れて精霊がちょっとアレなことになっていたり、悪魔をコンピューターの召喚プログラムで呼び出したり、別にその内容はどうでもいいのだが、つまるところ「世界設定」という言葉で完全に置き換えが可能な程度の意味でしかなかったのである。
 ゲーム雑誌における「世界観」の多用に、私のかよわい言語感覚はいたく傷つけられた気がしていたので、かつて友人の一人が私に「このゲーム、世界観が凄いんだって」という言葉で新作ソフトを推薦したときなど、そのゲームの入ったCDを奪い取って部屋の窓から捨てたくなったほどである。よく考えるとソフトには罪はないので身代わりに彼の靴下を投げた。それにしても、なぜこいつは人の部屋に来てわざわざ靴下を脱ぐのだ。

 そんなわけで、私はこの「世界観」という言葉を使うのが今でもなんだか恥ずかしいのだが、今回は、普通の意味での「世界観」の話である。ぶっちゃけた話、あなたの(オホン)世界観は、どんなものだろう。あなたの頭の中には、この世界がどんなかたちをして描かれているだろう。

 近代教育を受けた人間なら、だれでも太陽系か銀河系くらいまでは、正しい、というよりも、まあ正しいと思われているビジュアルイメージを、頭の中に描くことができるはずである。何回か前にここで書いた、ソフトボール場を太陽系に例える話は、普通の人の太陽系のイメージが持つ距離感と、観測結果に基づいた正しい距離が大きくへだたっているものだ、という面白さを狙ったものであるわけだ。少なくとも、普通の人の頭の中にはそれぞれその人なりの太陽系模型が入っているはずだという前提に立ったものである。地球を中心に据えたイメージを持っている人や、水星とほうき星の違いもよくわからない人だって中にはいるはずなのだが、現在の日本ではそんなにはいない。いないと思う。いや待てよ、少なくともうちのおばあちゃんは大丈夫じゃないような気がしてきた。

 さてそれはともかく、太陽系をまずまず正しく理解できている人でも、そこから上のレベルがちゃんとイメージできているかというと、急に怪しくなる。太陽系は、夜空の星座をかたちづくったりしている比較的近くの星ぼしに取り囲まれていて、その星の集合は、銀河の中心方向から伸びている一本の星の塊(オリオン腕)の中にある。そういう渦巻き状の腕が多数中心出ている円盤が銀河系である。銀河は似たような仲間と集まって銀河団を作り、さらに銀河団は超銀河団(芸の無い名前である)を作る。そしてそれはボイドとかグレートウォールなどと呼ばれるさらに大規模な構造を形作っている、と言われている。
 この辺りまではどうにかこうにか観測で分かっていることなので、知識として知っている人は少なくない。しかし、なんとなくイメージとしては、大規模すぎてもうひとつつかみにくいところである。むしろ、ここからさらに上のレベルである「宇宙全体」の方が、かえってイメージしやすいのではないか。そして、このレベルとなると、世界がどうなっているかについてはさまざまな解釈があって、専門家の間でも意見は一致しない。

 宇宙の果てはどうなっているのだろうか、と、中学生の頃私はよく友人と話しあった。田舎の豪奢な星空の下、星と星の間の深淵を眺めて、だとなかなか恰好いいのだが、大抵は教室で立ち話をしていただけなので、妖精が何人針の上で踊れるかを議論しているのと、あまり変わらない。
 そしてこの、誰もが抱くに違いない疑問について、そのころ私は、三通りの考え方を持っていた。この三つは、中学生にしてはこれはなかなか穿った意見であって、これ以外の可能性はあまりないと思う。

 一つは、世界に果てなどない、という考え方である。これはさらに二通りに分けられる。果てはなくて無限である、果てはないが有限である、という二つの宇宙である。
 果てがなくて無限である、はまあいいとして、果てはないが有限である、というのはどういうことか。これはつまり、地球が平面だと思っていたら球面だった、というようなものである。世界のこっちにどこまでも進んでいくと、いつのまにか反対側から帰ってくる。実際の宇宙は「曲率」などというここでは解説しない一ランク上の話もあって、ここまで単純ではないかもしれないが、基本的なアイデアは平面と球のたとえでほぼ説明される。あるいは、ドラクエなどのロールプレイングゲームのマップである、と行ったほうが分かる人には分かりやすいかもしれない。
 その世界の中にいる人には世界の端がどう見えるかというと、鏡を二枚向かい合わせにしたときのように、あるいはアニメの群衆シーンのように、同じパターンがいくつも繰り返されていているように見えるはずである。現実がそうなっていないからといって、別にこのアイデアを捨てる必要はない。我々が考えもしないほどの大きいパターンが、まだ観測されていないだけかもしれないからだ。

 で、残った最後の可能性というのが、どこかに果てがある、というものである。なんだそれはという人がいるかもしれない。なかなか勇気のいる意見である。宇宙をロケットでどこまでも進んでいくと、あるところで境界があって、そこから先にはいけない。境界の外側には高い崖があって、ごうごうと滝のように水が流れ落ちているのである、って、そんな中世の船乗りの迷信はいいのだが、とはいえ、ちょっと目には、現実にどこかに果てがあっていけない理由はあまりないような気がする。非常に遠くにあるので、まだ観測にかからないだけかもしれないからだ。なんだかそんなことばかり言っているが、これは本当にそうだから仕方がない。
 ただし、本当にどこかに果てがあると考えている人はあまりいない。この世界のどこかに端があるとすると、その端のところでは非常に変なことが起こっているはずである。なにしろそこから先には宇宙はないのだ。そっちへ行ったものは、光は、エネルギーはどうなるのだろう。そこでは、今知られている物理法則に、いろいろな例外を設けなければならないのは確かである。そして、それゆえに、証拠がある話ではないが、なんとなくこれは起こっていないような気がするのである。このゲーム盤のルールは、例外がごてごてある醜いものではなくて、もっとうまくできているように思う。

 実のところ、今のところ有力視されているのは、一番最初の、一番面白みのない、「果てはなくて無限」であるらしいが、さてさて、それにしても確実視されているわけではなく、「クォークって何色?」などの問題と同じように、まだ個人の自由なイメージを抱いていい領域であることは確かだ。では今の私はどういう世界観を持っているかというと、それが、特にこれといって無いのである。我々は非常に広い世界にいて、端はかすんで見えなくて、どうであるかはわからない。こう書くとまるで、世界観など持っていない、ということと同じだが、ええ、まあ、そのいいじゃないですか。どれにしたって別に人生には関わりない話だし。って、あ、こら、靴下。あっ、靴下を投げるのはやめて下さいっ。


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