ミレニアムエクスプレス

 「いよいよ1999年も間近に迫ってきた」という書き出しで、去年のちょうど今ごろ、1999年がどういう年になるかを予想する文章を書いた。「来年のことをいうと」という題名だが、あらためて見直してみると「私が恐怖の大王です」という人も特に現れなかったし、小渕総理はまだ総理大臣をやっている。まことに面目ない限りである。たった一年のこととはいえ、未来予測というのは、どうにも難しいものだ。

 さて、こうして一年が無為に過ぎ去り、いよいよ二千年も間近に迫ってきたわけだが、二千年という年代に対して、あなたは子供の頃どんなイメージを持っていただろうか。よく、二一世紀に対する集合無意識的な漠然としたイメージとして、今ではレトロフューチャーなどと言われたりする、エアカーだの、チューブの中を走り回る自動車だの、宇宙都市だのを挙げる人がいると思うが、そしてこれは、再来年から百年間はともかく二一世紀であり、来年(だと思うのだが)から千年はともかく次のミレニアムである以上、まだこの予想は外れたとは言えないわけだが、私の子供の頃を虚心に思い返してみるに、二千年という年代への期待は、そんなにとっぴなものでもなかったように思う。むしろ、昨今のネットワークや個人用コンピューターの発展については、私が、たとえば中学生くらいに抱いていたイメージよりはるかに進んでいるものを感じる。

 これに対して、予想ほど進歩しなかったものも確かにたくさんある。たとえば、核融合反応炉は実用化するのではないかと思っていたが、これはまだ実現にはほど遠い状態である。また、石油の枯渇にともなって、自動車の動力は石油から電気に変わるのではないかと思っていたが、これは一部ハイブリッド車や燃料電池と言う形で、確かに実現しかかっているが遅れている。こういうものの中で、やはり期待の大きかったものを挙げるならば、第一に宇宙開発であり、第二に人工知能とロボットだろう。特に宇宙開発は、アポロ計画などが一通り終わって宇宙開発がスローダウンしたあとの世代とはいうものの、もう少し進んでいるに違いないと思っていたのである。ちょうど、私が中学生の頃書いた、宇宙開発の未来に関する一文があるので、今回はそれを紹介して、過去行った未来予想がどれくらい妥当なものかを考えてみたい。

 時は一九八六年にさかのぼる。私は中学生としての最後の冬を迎えていた。そのころ、私の中学校の卒業文集の記事の一つとして、ある未来予想が企画された。中学校を卒業し、これからそれぞれの道を歩みはじめるにあたって、西暦二千年、三〇歳になった自分が、同窓会の誘いの手紙に返事を出すという設定で各自未来の自分を予想しつつ文章を書こうというものである。書いていて改めて感心するが、まったくもって優れた企画である。残念ながらこれを思い付いたのがクラスの誰なのかわからないのだが(私ではないことは確かだ)、惜しみない称賛を送りたいところである。

 私も、もちろんこの企画に短文を寄せた。この一五年ほども前の作文によれば、この二千年はどういう年であろうか。まず、作文の中で私は、宇宙開発関係の仕事をしていることになっている。実のところ、本当に将来そういう仕事をしたいと思っていたわけではない。そのころの私がどう思ってこの文章を書いたのかなんとなく覚えているのだが、広い意味での科学者にはなりたいものだとは考えていたものの、そのころの自分が将来就きそうな仕事の一つとして、作文にして最も絵になりそうなのが宇宙関係だろうと思ったにすぎないのだ。なんだか、このころから今とあまり変わらないことをやっていたような気がする。

 内容はというと、ひとことで言って、やけにバランス感覚に気を使って書かれた文章であり、無茶な予想はほとんどない。そのためかなり正確な未来予想が書けているのだが、自分が宇宙飛行士になるとか、そういう夢を抱いていないところが今思うといじらしいほどである。私の役どころは地上からの打ち上げ管制などを行うスタッフの一人で、作中で私が取り組んでいるプロジェクトは、日本初の外惑星探査機「わくせい二号」である。火星から、木星、土星を順に観測する、もちろん無人の惑星探査機で、私はその打ち上げ部分の仕事をしているとしているのだ。

 ここまででも、中学生の私の未来予想がかなり現実に近いことがわかる。まず、日本の宇宙開発の進行状況が、実にいいところを突いている。有人宇宙飛行はまだながら、独自の対軌道打ち上げ能力は一応確立しており、学術衛星を打ち上げる余裕も持っている。宇宙ステーションによる中継などを仮定せずに、まずまず技術的には妥当な、地上からの直接打ち上げという方式を採用しているのもナイスだし、国家的プロジェクトではあるが、無難なボイジャー型の惑星探査機を主題に据え、日本初であることに価値を見いだしているように、日本の技術に対する「過剰な期待を寄せないぶり」は見事なものである。わくせい、という名前も、芸はないが、現実味は十分ある。

 私の先見の明というかバランス感覚はまだ続く。これを思い出すと笑うしかないのだが、実はこのプロジェクト、失敗続きということになっているのである。「わくせい」の打ち上げそのものも既に一度失敗(というか延期)をしており、今回が二度目の打ち上げという設定になっている。そのため、他の人はこの文章を「みんなに同窓会で会えるのが楽しみです」と結ぶところ、ずっと施設にこもりきりであるので、同窓会には帰れそうにない、誠に申し訳ない、と書いている。さらに愚痴は続き、正直言って、今手を抜いて今度も失敗を喰らったらクビになるかもしれないのだ、というなんだか悲痛な叫びで締めくくられているのだ。まさに今私はそんな感じである。驚くほかない。

 もちろん、中学生らしいポカもいくつかしていて、その筆頭が衛星の値段である。この打ち上げが失敗したらこれだけの国民の血税がパアになるのだ、という文脈で触れられているのだが、それがいくらかというと、なんと百万円なのである。これは、どこかで日本のお金がデノミ(通貨切り下げ)を行うだろう、などという穿ちすぎた想像の結果であって、現実数百億円という衛星の値段が想像を絶していてなんだか「百億万円賭けるか」という子供っぽいフレーズに似ていて嫌だったということでもあるのだが、それにしても百万円はないだろうと思う。デノミにしても一万分の一はひどすぎる。貧乏性であったというしかない。

 とまあ、まずまず大筋において正確に未来を予想していた私なのだが、いくらなんでも、そのことを未来の私が文章に書き、あまつさえホームページなどというもので不特定多数の人間に向かって公開するということだけは予測していなかった。今、すっかりネタに使ってしまって、過去の自分に謝りたい気持ちでいっぱいである。中学生の私よ、誠に申し訳ない。そしてまたそのうちここで未来予想を披露することはあろうかと思うのだが、未来の私よ、どうかお手柔らかに。


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