浮かぶ疑問符

 竹中半兵衛、という人がいて、この人はどういう人かというと、戦国時代、信長などに仕えて、軍師として活躍した人物である。とにかく優れた軍師であり、特に小勢をもって大軍を包囲網の中におびき出し、一気に覆滅するという「埋伏の陣」の名手であったということだ。そんなことはどうでもよくて、要するにこの人は軍事に関する賢人として有名な人物なのだが、最近読んだ小説の中に、彼の言葉としてこんな言葉が載っていた。

「ええ、わたしのところには、いろいろな人が教えを乞いに来ました。戦略を教わろうと思ってです。ええ。でも、みんな基本的なことが分かってない。分かってないから、わたしへの質問は、どれもピント外れで。言っちゃ何ですが、これじゃあなんにもならないと思いますねえ。ええ」

 なにしろ歴史書ではなく小説で読んだだけなので、一般に彼がこういうことを言ったとされているのかどうかわからない。こんな言い方でないとは思う。これだけ見ると、竹中半兵衛、むっさ嫌なやつなんじゃないだろかと思うのだが、まあ、本当に馬鹿な質問ばかりされていたのだろう。彼は、秀吉の下でその能力を発揮した後、信長の野望の末を見届けることなく、天正七年に病を得て亡くなっている、と、これもその小説に書いてあっただけなので二、三年くらいずれているかもしれない。ちゃんと調べて書けばよいようなものだが、面白いからとりあえずこのままにしておく。詳しい方はご指摘願います。

 そうはいっても、いい質問をするというのはなかなか難しいことである。さよう、よい学徒は、身の回りのあらゆる事に疑問を持たねばならない。全てのものに疑問を持って、その謎を「質問」として明確化し、追及する姿勢が大事である。秋晴れの空を見ては、その美しさに心奪われることなく、むしろ「空はどうして青いのだろう」と思わねばならないのである。

 しかし、ここであなたにお聞きしたいのだが、「空はどうして青いの」という疑問を、学習雑誌か何かで答とセットにして聞くより前に自分で思い付くことができただろうか。しかり、私にはできなかった。出来なかったから言うのだが、かなり難しいことなのではないだろうか。もちろん、一度、こういう質問のパターンを覚えてしまえば「海はどうして青いのですか」「葉っぱはどうして緑なのですか」などと無数の応用ができるのだが、これがこんな色をしているのにはなにか理由がなくてはならないはずだ、と思い付くには、ちょっとやそっとの才能では追いつかないと思うのである。それに、あとで述べるが、この質問は実はいい質問とは言えない。

 私の父親が、あるときどこから聞きかじってきたのか、有名なラジオ番組「子供電話相談室」に、質問に答える先生方を思わずうならせる面白い質問があった、という話を教えてくれたことがある。「1×1=1の、最初の1と、二つ目の1、最後の1は意味が違うんですか」という質問だったとのことだが、これ、書いていてまるで禅問答のようだといま思った。あなたもこれだけ聞いただけではわけがわからないだろうと思うのだが、結局のところ、数字を掛けるというのは、足したり引いたりするのとはわけが違う、ということである。この数字に「単位」がついていた場合、単位同士も掛け合わされるのである。

 たとえば、こういうことだ。一列に三つずつミカンが並んでいて、それが五列ある。合計は一五個である。これを式で書くと「3×5=15」になるわけだが、ここで、3と5と15は同じ立場かというと違うのである。ここでは、最初の3が一列あたりのミカンの個数、5はミカンではなく「ミカンの列」の数、最後の15はミカンの個数ということになる。3と5と15は、一見どれもミカンの個数に見えて、ちょっとずつ意味が違うのである。そう考えると確かに、決して「1×1=1」の三つの1は、等価ではない。たとえばの話、この式が「縦横1センチの正方形の面積は1平方センチ」を意味する場合、三つ目の1は明らかに他の二つの1とは意味が違うわけだ。最初の二つの1の意味がどう違うかは、宿題にするのでちゃんとやってくるように。

 これはなるほど、大した質問である。大した質問であるが、本当に最初に質問した小学生は、この質問が優れた質問だということが分かっていて質問したのかというと、私が思い付かなかったから言うのだが、やっぱり失礼ながらこれは、下手な鉄砲も数撃ちゃ、という話ではないかと、思うのである。あるいは、時速六〇キロで二時間進むと一二〇キロメートル、というようなことを十分理解して、はじめてかけ算における単位の話に至るという、答から逆に進んだアプローチでしか、たどり着けない疑問のように思える。

 さて「1×1=1」もつまりそういうことなのだが、「空はどうして青いの」がどうしていい質問ではないかというと、そこには「本来この色であるはずなのに」という視点が欠けているからである。学校の体操服が、一年生はえんじ色で二年生が紺色で三年生が緑色だからといって、そこには別に意味などない。単に色分けしてあると便利だから何でもいいのだがこの色に決めただけである。しかし、質問を思い付くということの価値から言えば「どうして一年生の体操服はえんじ色なの」という疑問だって空の色と同じ価値を持つはずなのである。
 それなのに、どうして「空はどうして青いのか」という質問のみが優れた質問とされるのかというと、この質問にはたまたま、その背後にレイリー散乱という物理現象が隠れていて、どうして他の色ではなく、青なのかを研究することが物理的に意味のあることだからに過ぎない。空気に色が付くなんておかしい、あるいは太陽の光を反射するにしても白くないのはなぜなのか、というところまで考えて、この疑問を出してきたのなら大したものだが、そうでないとすれば、これはあんまりいい質問とは言えないのである。

 と、いろいろ書いてきたが、本当のところ、これはいい質問こっちは悪い質問などという差はささいなものであって、一見たわいもない疑問から優れた発見が生まれてきたことも多いのであるから、いくら相手に嫌な顔をされようとも、何でも聞いてみるほうがいい。半兵衛だって、知らぬ顔ばかりをしていたわけではないと思うのである。


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