迷子を探せ

 私が生まれ育った家の居間には、電話が二つあった。どちらも昔ながらのダイヤル式の黒電話で、それが電話台の上に並んでいる。当時は携帯電話などというものは世界のどこにもなかったので、遠くから私の家を訪れた知人が電話を借りようとすることが珍しくなかったのだが、電話台の前まで来て驚き、二つ並んだ黒電話のどっちが本物なのかと家人に尋ねるということがよくあった。そのたびに私たち家族は、そうか、日本の普通の家には電話は一つしかないんだなということをあらためて思い出すのだった。

 実は、一つは確かに電電公社の普通の電話なのだが、もう一つは、農協がやっている「有線放送」の端末なのである(いずれも当時)。ただし、有線放送といっても、この場合喫茶店などに音楽が流れているああいうものとは別のものである。農協が各戸に情報を一斉に伝達するための公報システムなのだ。本当のところ、この機能を果たすためだけならスピーカー一個でいいのだが、なぜ電話の形をしているのかというと、どうせ各戸に配るのだから付加価値を持たせようということなのかどうか、電話機能がオマケでついているのである。この有線放送端末で、各戸ごとに電話番号とは別にある「有線番号」を回すと、町内の同じ端末を置いている家のみになのだが、電話をかけることができる。いくらかけても支払いは同じという定額料金制だったので、私たちは町内の連絡にはもっぱらこれを使っていた。

 この「有線電話」略して「有線」という後でややこしくなりそうな名前で呼ばれていた装置は、いつもはこうして電話然としてそこにいるわけだが、なにしろ本性が公報システムなので、こちらがなにもしなくても勝手にスイッチが入ってアナウンスを流し始める。内容は、火災の警報、豪雨のときの避難勧告のような緊急放送のほか、小学校の遠足や運動会の有無、老人会の旅行一行が無事に旅館に着いたというようなニュースだが、ほかにも、地元の農協が制作している普通のラジオみたいな放送が朝夕に十分ずつくらい流れていた。このレギュラーの放送は、流行の音楽、小中学生が書いた作文や合唱の発表、お誕生日おめでとうのコーナー、どこそこのだれかさん家になんとかちゃんという赤ちゃんが産まれた、どなたはんのお父さんなに兵衛さんがいつウン歳で亡くなられたなどで、これが問答無用でその電話機から流れてくるのである。このとき受話器を取っても、電話はかけられない。しかも、緊急放送が入る可能性があるからということで、この音声は基本的に消せないように出来ていて、居間で昼寝をしていたりする私はたいへん腹がたったことが何度かあった。

 有線電話から、こうしてときどき流れる緊急放送の一つに、迷い犬のお知らせ、というものがあった。そういえば、うちの犬も一度帰ってこなくなり、探しに行ったら役場の前に置いてあったオリの中で途方に暮れていたなどということがあったりしたが、そういう野犬狩りチームにつかまっている以外の犬の消息を尋ねる放送が、たまにあったのである。農協に頼めば、これといった対価も要求されずに、やってもらえたらしい。
「迷い犬のお知らせです。ナニ助さんの飼い犬、バナナワニ号の行方が昨日からわからなくなっています。バナナワニ号は、体長七〇センチくらいのダルメシアンで赤い首輪をしています。お心当たりの方は、有線四一九二番までご連絡をお願いします」
とまあ、こんな感じである。実にそうした、地域に密着した公報システムとして有効に働いていたのである。

 さて、それから二〇年。まだこの旧態依然たる有線放送はケーブルテレビにもインターネット常時接続インフラにも進化することなくそのまま使われ続けているのだが、そんなふるさとのことを笑えない。私が今住んでいる市にも、近所に同じような役割を果たす公報装置が実はあるのである。街角に立っているスピーカーだ。電柱の上に、スピーカーが据え付けてあって、これから放送が流れるのである。まず、結局はここも田舎であるということなのだろう。

 ふるさとの有線放送も同じようなものだといえるが、この公報システムの問答無用そこに直れぶりは、街角に流すというところでやはり故郷のものとは一線を画している。さすがにレギュラーの放送はなく、緊急時だけに使われるようだが、市役所で献血を受け付けておりますとか、選挙は何時までなのでさっさと投票しなさいとか、そういう市役所からのお知らせが流れてくるのだ。たまたまだが、私が住んでいるアパートの隣にそのスピーカーがあるので、これがうるさいったらない。しかも、どういう理由があるのか、その話し方がこんななのである。
「…つごうの…つかない…かたは…ふざいしゃとうひょう…を…すること…が…できます。…ごぜん…はちじから…ごご…よじ…まで…しやくしょ…の…」
 駅などでよく「午後、七、時、ちょうど、発、の、のぞみ、六五、号、新大阪、行きは」などと、コンピューターで合成した妙な間があるアナウンスが流れることがあるが、あれを生身の人間がやっている感じである。私の故郷の有線放送は、完璧ではないにしろ、かなりちゃんとした発音のできる人が放送をしていたものだが、この市では話しているのは普通の市役所所員のようである。たぶん、スピーカーの質が悪かったり反響したりするのでゆっくり話さないと聞き取れないということがあるのだろうが、何とも言えない変な間があって笑ってしまうのだった。

 そんなある休日の夕方、私はスピーカーから流れてきたアナウンスを、聞くともなしに聞いていた。
「市役所…からの…迷子の…お知らせ…です」
 へえ。
「昨日夜から、○○町の女の子が行方不明になっています」
 ふんふん。
「迷子になっているのは、赤いジャンパーに青いジーンズ、身長一三〇センチくらいで」
 ……。
「髪をお下げにした一五歳の女の子です」
 おいこらちょっと待った。
「お心当たりの方は、市役所までご連絡下さい」
 さすがに都会である。一五歳の女の子が迷子になるとは、油断がならない。私も注意することにしよう。


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