別荘にて

 土の匂い、蝉の声。昼過ぎから降っていた暖かい小雨が、どうやら上がったあとの林は、曇り空の下、むっとするような湿度の中にあった。私と、シンヤと、それからサチの三人は、町外れの山の中、雑木林の外れに自転車を停めて、靴と靴下を泥で汚しながら、踏み分け道をここまで登ってきたのだった。少し息を切らした私たちのまわりを、うるさく羽虫が飛び回っている。季節は、夏。

「着いたで」
 と、誰に言うともなく、私はつぶやいた。林の中にぽかりと開いた、直径十メートルほどの広場の真ん中に、一抱えもある巨木があった。そして、その大枝の上に、数日前、私たちが作った「別荘」がある。
「早よ、登ろ」
 せかすように言ったサチの方をちらりと見てから、シンヤは、痒いらしい、半ズボンからむき出しになった足をごしごしとこすってから、言った。
「ちょ、待って、よう、確かめな」
 枝の上にしつらえられた床までは、それでも三メートルくらいの高さがある。幅二十センチほどの木切れを何本か、釘で幹に打ち付けることによって、別荘までの簡単な梯子は作ってあるのだが、これがまったくあてにならず、引っ張るだけで簡単に抜けてしまうことがあると、前回の経験から私とシンヤは知っていた。生きている木の組織によって、異物である釘が押しだされてしまうように見える。これが、木が生きている、ということなのだろうか。シンヤは打ち付けた木切れを引っ張ってみて、どうやら大丈夫だと分かると、あとはひょいひょいと登って、たちまち最初の床の上に腰掛けた。剥がされた木の皮と、泥のかけらがぱらぱらと落ちてきて、私はちょっと目をつぶる。

 大丈夫か、という目で見る私の視線を振り払うように、サチはうなずいて見せると、地上に私を残し、手がかりをつかんで木を登っていった。そこは田舎の子供である。さすがにシンヤよりはぎこちないところがあったが、赤いジャージを着たサチは、無難にシンヤのいる床にたどり着いた。私も続く。途中、やはり緩みかけている足場を、ズボンのポケットに差していた金づちでとんとんと打ち込みながら、二人のところまでするすると登ってゆく。こういうとき、いつも私は「ジャックと豆の木」のことを思い出す。

 たった数メートルのことのはずだが、木の上は、ジャックが登っていった雲の上の世界に負けず劣らず、別世界のようだった。いい匂いの風が通り、ずっと過ごしやすい。廃材を組み合わせて作った床は、雨に濡れていたとしても、今やすっかり乾いていた。シンヤはさらに上の枝にある「二階」に登って、そこでなにかを見ている。私は、置き残してあったプラスチックの道具箱から、蚊取り線香とライターをとりだすと、苦労して火をつけた。サチは喜んで「二階」に上がったり、また「一階」に降りてきたりしている。二階のさらに上、張りだした小枝に屋根のようにかけられたビニールシートを、シンヤが押し上げたようだ。溜まった雨水が、ばさり、という音を立てて一階にいる私の横を落ち、腐葉土の積もった地面に吸い込まれて消えた。

「ええ、眺めやろ」
 とシンヤがサチに誇らしげに言っているのが聞こえる。私もまんざらではない気分だが、正直言って眺めがいいかというと、それほどでもない。シンヤと私がここに「別荘」を築いたのは、眺望よりもなによりも、林の中でここが少し開けていて、しかも小学生数人分の体重を支えられる大木があったからだ。廃材の床をうまく設置できそうな枝があったからだ。実際、木の立っている山の斜面は、両側に張りだした尾根に抱かれる格好になっており、視界は狭い。遠くわずかに水田に囲まれた町並みが見えるだけだった。

 私は、蚊取り線香が順調に煙をたなびかせているのを確かめると、シンヤとサチが腰掛けた、二階の床の上に顔を出した。半畳ほどの広さがある一階と違って、二階には二人が座ると、もうあまり場所はない。左手で枝をつかんで体を支えた、不安定な格好で、上半身だけを出すしかない。私がぶら下がることによって、太い幹が、それでも少し、ゆさゆさとしなう。
「……」
 と、シンヤが私の名前を呼ぶ。私は自由な右手で町を指さすと、サチに説明をはじめた。そういえば、私の役どころは、ずっと、そうしたところだった。
「あれが、小学校や。赤い屋根が見えるやろ。あの山の中にあるのが、ユニセンの工場」
 私は、見える建物に説明を与えていった。シンヤとサチが、私の説明に耳を傾けている。
「んで、あっちに、黒いかわらのやねが、ちょっとだけ見えとんのがミツルの家や。それで」
 と。

「あーっ、お墓なんか、指さしたら、あかんのに」
と、突然、驚いたような顔でこちらの顔をのぞき込んだサチが、すっとんきょうな声でそう言ったので、私は、ほとんど指先が痺れるような感じを味わった。しまった。私の指は確かに、ふもとの小さなお墓を指していた。そうだ、お墓は決して指さしてはいけない。知っていたはずなのに、どうしてやってしまったのだろう。私は、犯したタブーに動顛して、ひっくり返ったような心臓を必死でなだめながら考えた。そんなことをすれば、確か、確か。
「指さしたら、どないなんねやったっけ」
 おどおどと、そう聞いた私に、サチは何と答えたか。かぶりをふったサチは、とにかく不吉なことが起こるのだ、ということを、はっきりしない言葉で、もごもごと言った後、そこから逃れる方法だけを、私に告げた。
「指さした指を、自分で、力いっぱい噛まな、あかんねんで。手加減したら、あかんねん」
 私は、土で汚れた右手の人さし指をちょっと見てから、前歯の間に挟み、思い切って噛んだ。

 そして、私は、いつもの寝床の中で目を覚ました。遥かな大木の上の別荘が、夢にすぎないのだと、古い記憶の歪んだ再現だと気がついた私は、二九歳で社会人で、薄暗い部屋の中、布団の中でたったひとりだった。そして何よりも、ゆうべトイレのドアで挟んだ指先が、ずきずきと痛んでならなかった。


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