顎門はそのとき開く

 もしもあなたが、かつてゲーム少年/少女であったのなら「マッピー」という古いビデオゲームをご存知だろう。大手ゲームメーカーの一つナムコが1983年ごろに発表したアーケードゲームで、その後家庭用ゲーム機など多数のプラットホームに移植された。プレイヤー操作するネズミの警官「マッピー」が、一軒の洋館の断面図のような画面内を、猫の盗賊団とハチ合わせしないように気をつけながら、館の中の盗品を全て回収するというゲームである。

 今、思い出しながら書いていて不思議に思ったが、警官のくせに泥棒に捕まらないように逃げ回ったり、盗品をぬすみかえすというのは、実におかしな話であって、理解しがたいものがある。いっそのこと、ネズミの泥棒が猫の警官から逃げつつ洋館から物を盗む、でも別段問題ないような気がするし、ネズミにはむしろ泥棒がお似合いであるようにも思えるのだが、いまさらな話であるし、まあこれはどうでもよい。とにかく、警官なのに弱い立場にあるマッピーには、ポパイにおけるホウレンソウ、ヤッターワンにおけるメカの素よろしく、いくつかの逆襲アイテムが与えられている。その一つ、もっとも基本的な武器が「ドア」であった。

 ホウレンソウやメカの素を食べても人間は強くなったり口から小型メカを出したりはできないが、マッピーがしたようにドアを使うことは、だれでも可能である。方法はこうだ。まず「向こう側に開くドア」の前に立ってドアノブを握る。相手がドアの向こう側に通りかかるのを気配を殺して待ち、一気にドアを開く。ミューキーズ(「マッピー」の敵役である子猫)はこれを喰らうとしばらく気絶する。現実にも、当たりどころによっては本当に冗談抜きで怪我をするので、うかうかとは試さないように。昔、弟で実験してみた私が言うのだから、間違いない。

 外国の映画でもときどき、女性や子供にこれを喰らってあえなく倒れる悪漢、という図式を目にすることがあるが、この、おそらくは開発者の経験に基づいたに違いない単純な攻撃は、意外にもかなり強力な技であり、非常に避けづらいものである。今開けようと思った、ないし開くとは思っていなかったドアがこちらに開く現象に対して、どういうわけか人間はほとんどまともな対処をとれないのだ。想像だが、これは遺伝的な人類の欠陥の一つで、主に「人類の祖先が住んでいた樹上には、ドアがなかった」というのが原因ではないかと思う。

 いま仮にマッピー攻撃と呼ぶことにするこの危険な技は、しかし平和な日常に思わぬ形で顔をのぞかせることがある。まず前提として、大学やオフィスビル、それにマンションの部屋のドアは、おおむね外側に開くようになっている。小中高校の教室や病院の病室は大抵横にスライドするドアだが、それ以外の場所では、おそらく、戸袋の占有スペースがばかにならないとか、ばね仕掛けで自動的に閉まるしくみを取り付けにくいとかいったあたりが原因なのだろう、スライド式はあまり採用されていないのである。危険なマッピー型ドアが取り付けられているわけだ。

 悪いことに、部屋の有効内容積を減らさないようにするためか、ドアの開く方向は、ほとんどの場合、部屋の内側ではなく廊下側である。要するに、こうした建物では、廊下にずらっと並んだドアが、部屋の住人の出入りに伴って、廊下を歩く人に向けて、ランダムに開くのである。マンションのドアなら開く頻度はあまり高くないからいいが、大学などの場合、ただ廊下を歩いているだけで、実に頻繁に、開いたドアに鼻をぶつけることになってしまう。恐ろしいといったらない。私は大学にいたころ、毎週のようにこのマッピー攻撃を受けていたような気がする。

 もちろん、廊下の中央を歩くようにすれば、開いたドアは物理的に通行人に届かない。が、この戦略は特に廊下の向こうからもう一人通行人がやって来る場合にたちまち弱点を露呈する。被害者である通行人に責を負わせるのが間違っているのであって、住人の方が、廊下に人がいるときにドアを開けないよう気をつければそれでいいはずだが、自分がドアを開けるときどうかと考えてみると、確かに外に誰かがいる可能性についてまったく意識していない。一体全体、偶然にマッピー攻撃が成功してしまう確率はどれくらいあるのだろうか。

 簡単に計算してみよう。今私がいる部屋の幅と、ドアの幅は、それぞれ七メートルで、九〇センチであった。つまり、どんな速度で廊下を歩いていようと、あるいは走っていたとしても、ある瞬間に自分がドアの前にいる確率は、単純に〇・九を七で割ればよい。すなわち一二・九パーセントとなる。一方、ドアが開く頻度はというと、中の住人が外の誰かと打ち合わせる必要が生じて、あるいはタバコを一服しようと思って、またはトイレに行きたいと思って、出入りする回数に依存する。これを正確に見積もるのは難しいが、議論のために一日二〇回はそうして出入りすることにする。部屋の住人の数を五人とすれば、ドアは一日につき一〇〇回、不運な通行人に怪我を負わせるべくその顎門を開くわけだ。一日の労働時間を一〇時間とすると、一時間あたり一〇回、つまり六分に一回ドアが開くことになる。

 要するに、廊下を六分間歩くたびに、一二・九パーセントの確率で、我々はマッピー攻撃を受けてしまうのである。長い廊下を六分も歩くのはめったにないことだが(時速十キロなら一キロも歩けてしまう。見たことはないが、あなたのオフィスの長さはそれよりずっと短いはずだ)、さきほどの、一日二〇回、人は部屋の外に出る、という仮定を使えば、それぞれの外出で往復五〇メートル、片道で二五メートル先にあるトイレに、行って帰ってくればそれでいいことになる。これは、普通の人の行動パターンとして、まずまず妥当ではないかと思う。結局、一日につき一割もの確率で、人はマッピー攻撃を受けるのだ。

 計算して心底驚いているのだが、一日につき一割、とはかなり強烈な確率である。一週間で約五割、一ヶ月で九六パーセントの人間が、一度はミューキーズの気持ちを味わう、ということになるのだ。実際には人間はけっこう廊下の中央を歩いている、とか、本当にドアを避けきれない位置というのはドアの幅よりもかなり狭い、などの理由で確率はずいぶん小さくなっているのだろうが、歩いている人の横でたまたまドアが開く確率というのはかように高いのである。ドア恐るべし。マッピー攻撃は、今日もどこかで犠牲者の前歯をへし折っている。


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