アイはうつろに

 何を美しいと、あるいは心地よいと感じるかは、言うまでもなくひとそれぞれであって、たとえ有名な絵画彫刻あるいは音楽だったとしても、自分で見たり聴いたりしてみなければ、自分に合っているかどうか本当のところはわからない。やはり世間で言われているほどのことはある、と感心することもあれば、なんだこれはどこがいいのかどこでいいと言われているのか、と思うときもある。もちろん、たいていは噂にたがわぬ感動を受けるわけで、世評とは要するにそういうものなので当然だが、自分の意見が定評と食い違うとき、あるいは人によって大きく好みが異なって「合う人、合わない人」が出るのは、こう言っていいものかどうかわからないが、大抵の場合、非常にプリミティブな、手間のかからない(ように見える)芸術である、という気がする。

 ペンキ缶を壁に投げたり、ハンマーだのショットガンだので何かを破壊したりして作る、絵に描いたような、いや、この場合絵に描かなかったようなというべきか、いわゆる抽象芸術は、マンガや小説に良く出てくるほど、そうちょくちょくは存在しないとは思うのだが、それでも時々普通に暮らしているだけで出会うこともある。そうしたものに向き合って「ペンキ缶を壁に投げたように見える」「ハンマーで電子レンジをたたき壊したように見える」以上の感想が抱けないのは私だけではないと思う。抽象芸術の中にも、確かにときどきは、これは、と思うものに出会うときもあるのだが、そんなことを言うと、手入れしてない柿の木の枝ぶり、とか、放置されて苔むしただけの道標、などというものにも我々はどうかすると感動を覚えることはあるわけで、感動がこれと同質のものであるとすれば、失礼ながら、これは別に芸術家が偉いわけではない。

 以前、ある抽象画が印刷された絵はがき大のカードをいただいたことがあって、これが、正直言って、どちらが上か下かもわからないカテゴリーに属する絵だった。どの置き方が自分にとって一番心地よいかでどうにか判別できないかと、はがきをぐるぐると回転させてみたり、床に置いたり明かりに透かしたりしてみたりしてみたのだが、自分の内面になにか沸き上がってくるものを待つこと数分、出た結論は「どれも大差ない」であった。結局、色だけは気に入ったので、なんとも申し訳ないことに、その絵はがきは私の部屋の一隅に、四分の一の確率で正しいだろう適当な向きで貼り付けてある。このカードをくれた人がいつの日か私の部屋に来て、間違いを指摘するのではないかと、それが恐ろしくもあり、楽しみでもあるところだ。

 さて、美しいということで言うと、しばしば数学や物理の公式、等式を指して「美しい」と形容されることがある。これも一種の抽象芸術、ということになるのかもしれないが、といって、本当に言われる通りにその数式を美しいと思ったことはほとんどない。確かに、ごたごたと渾沌とした体系全体から、ぽっ、と奇跡のように浮かび上がってきた単純な数式に、一種「見事さ」のような感情を覚えることはあるのだが、それが「美」かというと、そうではないと思うのである。たとえば、相対性理論の帰結の一部である有名な「E=mc2」という式、確かに単純で、利用範囲が広くて、さまざまな含意があって、これが意味するところを考えるとこの世界の構造に感心してしまうのだが、といってこの感情は美しさとは明らかに別ではないだろうか。

 そういう、同意できなかった例のひとつ、ということになるのだろう。高校生の時、数学の美しさについて書かれた短いエッセイを読んだことがあって、次のような数式が大きな活字で印刷されていたのを覚えている。

iπ+1=0

 ここで「π」は円周率、「i」は虚数単位で、「e」というのは自然対数の底である。エッセイの筆者によれば、この式には自然対数の底、虚数単位、円周率という代表的で基本的な数学の単位(というかなんというか、であるが)を組み合わせ、さらにもっとも単純な数である1と0で奇麗に書けるという、数学の美しさというものを表した式だと、そう言えるのだそうである。

 高校生のこととて、それはすごい、とは思ったものの、では自分で検算してみようとして計算機を取りだした私は、いきなり暗礁に乗り上げることになった。小学校で習うπはもちろん、eもiも高校で習うので知っていることは知っているのだが、ではiが乗数(2、つまり「2の3乗」の3のこと)として存在している場合にどういう計算をしていいかがわからないのである。実際の話、この式の正確な意味は大学の教養課程か、もしかしたら理系の専門科目にすこし踏み込んだところまで行かないとわからない。

 しかも、実は、そこまで習ったところで「E=mc2」だの「gy=c」だのといった式と違い、実際に関数電卓をぽんぽんと叩いて答えを出して、ああ、本当に成り立っている、とにやりとすることはできない。詳しい説明は退屈なだけだろうから省くが、「eiπ+1=0」は確かに証明可能で正しいのだが、どうかすると単に「そういう定義である」という認識で扱われてしまう。むしろ、iπで乗じてマイナス1になる数こそがeである、と言ってもいいのだ。あたりまえのことなのである。大学の講義がこの後入ってゆく、複素関数の微分方程式では、まずもってこの式(が導かれる、ある関係)をあたりまえに使いこなせなければ、にっちもさっちもいかない。

 沸き上がり砕ける入道雲、雷ともに降り落ちる激しい夕立ち、そして幻のような姿を見せる虹に、ときおり我々が受けることがある感動は、そこに働いている物理法則を知ったからといって薄れることはない。だが、単純な数式の美しさとは、せいぜいのところ、良くできた道具の機能美程度のものではないかと思うのだ。当たり前の話で、道具は、特にそれを使って仕事をしようという者にとっては、油が差されてよく動き、便利に使えることをもってよしとすべきでそれが唯一の価値基準である。そこに美を見いだしてしまうのは、むしろ自分が部外者であるという、なによりの証なのかもしれない。


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