地球儀というのは、あれは何のためにあったのだろう、と今でも思う。
物心ついたときから、その地球儀は、私の学習机の本棚の一角を占領していた。明るい青で塗られた海を基調に、国家ごとに色分けされた地図が貼られたプラスチック球が、鉛直から二三・四度傾いた軸に固定され、軽く回転するように作られている。この模型が、そもそもどういう来歴で私のものとなったのか、まずそこのところからして全くわからない。直径約五〇センチという大きさや、磨かれた木製の台の仰々しさから考えて、かなり高価なものであったことは確かである。事実、のちに訪れた友人たちの家で時折見かける他のどの地球儀と比べても、大きく、立派なものだったのだ。
といって、私がそれを自慢の種にしていたかというと、そんなことはなかった。一言で言えば、地球儀とは、用途があまりにも限られているわりに場所を取る、困った道具なのである。たとえば、地図帳ではなく地球儀でなければできない事というと、なんだろうか。地球上の任意の二つの地点の間の距離と方角を(糸などを使って)測れること、それから両極近く、たとえばグリーンランドや南極大陸の面積と形を正しく認識できること、と、数えてみてもこの二つくらいしかない。私にに関して思い出してみれば、理科で習った、夏と冬で昼の長さや太陽光の当たり方がどう違うか、といったことの実験にもこの地球儀を引っ張り出してきて使ったりしたのだが、これは正直なところを言えばなにも地球儀を使う必要はない。バレーボールの北緯三五度辺りに「日本」と書いておけばいいのである。
それでも、やはり年齢を重ねなければ物の価値がわからないということはあるもので、二年ほど前、ある事情から南太平洋を中心とした正距方位図法の地図が欲しくなり、そうだ私には地球儀があったではないか、あれをデジカメで撮影すればいいではないか、と探してみたことがあった。ところが、無いのである。地球儀の、もう一つのいいところは、えらくかさばるうえに他のものを積み重ねて収納できないので、「ここにはない」ということだけはすぐ、はっきりとわかることである。あの巨大な玉っころが、どこに行ってしまったものやら、誰がどうやって処分したものやらわからないが、実家の私の部屋から無くなっていたのだった。ちょっと違う気もするが「孝行をしたいときには親はなし」ということわざが思い出されてならない私であった。
さて、地球儀を手元に置いていると、ひとつ良くないことがあって、それは地球が本当はどんなに大きいものなのか、ともすれば忘れがちになるということである。実のところ、われわれが寄って立つところの大地であるこの地球から受ける「大きさ、重さが持つ迫力」こそ、地球儀に最も欠けている部分である。ここで、地球がどんなに大きいのかについて、ちょっと面白い着想がある。地球というのはご存知の通り、地軸の周りに一日一回、くるくると自転を続けているのだが、これに縄をつけて引っ張って停めようとすると、どれくらい大変か、という話だ。
話を簡単にするために、今、赤道の上にぐるりと地球を一周、平坦な道路を作ったとする。玉乗りをするようなもので、ここを西に歩くと、地球の自転速度が少し速くなり、反対に東に向けて歩くと、地球の自転に少しブレーキをかけることになる。かけることになるのは確かなのだが、さあその大きさというと、どのくらいになるのだろうか。地球は、その上を歩く人間のことを、どれくらい気にかけてくれているだろうか。
物体をある軸の周りにぐるぐる回すとき、それがどれくらい廻りにくいかを表す物理量として「慣性モーメント」と呼ばれる物理量がある。シーソーの端に座ったほうが重いものを持ち上げられるとか、自転車のギア比を変えると速さと力のバランスが変わるとか、そういった現象を記述するための数値を表すための術語である。たとえば、一メートルの軽い棒の両端に一キログラムの錘がついている、というファイアーダンスで使うようなバトンの慣性モーメントを計算すると、0.5キログラム・平方メートルということになる。ことになる、などと言われてもなんだかわからないと思うが、同じ単位で測った、地球の、地軸の周りの慣性モーメントは、8.0×(10の37乗)キログラム・平方メートルである(※1)。やっぱりなんだか分からない。書いてみよう。
何というべきか、とにかくものすごいものであることだけはわかる。地球は地軸の回りに一日に一回の割合で回転しているわけだが、この慣性モーメントに回転の角速度(説明は省くが、2πを回転の周期で割ったもの)をかけると、地球の持つ回転の強さ、「角運動量」になる。
正直言って、桁が減ったのが、残念である。
さて一方の、赤道の周りをほとほと歩く人間のほうを考えてみよう。同じように角運動量を計算して、地球の持っていた角運動量からこれだけが減る(あるいは増える)、として計算してやればよい。地軸の周りを歩く人間の運動は、速さ×回転中心からの距離(この場合は、地球の赤道半径)×人間の体重、という量になる。ここでは、人間の体重を八〇キロ、歩く速さを時速一〇キロとする。
これだけ見ればこの数字だって(主に地球の赤道半径6,378,000メートルのおかげで)ちょっとしたものだが、上の地球の角運動量と比べてしまうと、いかにも頼りない。頼りないから、援軍を遣わそう。現在の地球の人口は六〇億人くらいだろうか。これはもう全部歩かそう(※2)。速さも時速一〇キロなどというケチなことを言わず、スプリンター並、百メートルを十秒で走らせる。そうするとどうなるか。
ずいぶん桁が増えたようだが、地球のそれとの差は、まだ絶望的なまでに大きい。このマラソンをずっと続けたとして、地球がどのくらい遅くなるかというと、時計の針と地球の自転が一秒ずれるまでに、おおよそ六百万年くらいかかることになってしまう。これはちょっと、いささか、気の長すぎる話である(かつ、他の理由による自転の変化、たとえば月がもたらす潮汐によるブレーキをはるかに下回る)。人間が生み出したものだから、ということで、自動車などの内燃機関を使うことで(※3)これより一桁か二桁、ひょっとして三桁か大盤振る舞いして四桁、得られる角運動量は増えるかもしれないが、それでも地球そのものの自転を一秒遅らせるだけのために、数百年を要してしまうのだ。
結局、こういうことである。地球は、地球儀を見て我々がわかったつもりになっているよりも、ずっと遥かに大きくて重い。本当に、ちょっとやそっと環境破壊したくらいでどうにかなるとは思えないほど広い。それが、地球儀を手元に置き、大きくともせいぜい一抱えほどのそれを眺めることによって、なんとなく「見切った」というか、それがちっぽけなものに見えてきてしまうのだ。よく、アニメなどで独裁者が地球儀に手を置いて「この地球ももうすぐ私のものだふはははは」などとつぶやくシーンがあるが、幼い彼に地球儀を与えさえしなければそんな妄想を抱くこともなかったろうに、と思うのである。もっとも、地球儀を見たことがなく、世界が平らな円盤だと思っている独裁者も、それはそれで怖いような気がする。