ヒゲよ、さらば

 よく言われることだが、人にはそれぞれ一つくらいは取り柄がある。たとえばの話、私に与えられた取り柄の中に、「エガー」というマイナーな格闘技の才能がある、ということに最近気がついた。実はおそらくたまたま、私の体の構造はこのヒジを使う格闘技に向いているらしく、また精神面の相性も、エガーに打ち込んでいる間は、不思議なほど精神が集中して、実に良かったりするのである。エガーは、特殊な筋肉を使用することもあり、トータルな運動能力にさほど関係ないため、いざエガーをやってみるまでは、よもや自分にそんな才能があろうとは思わなかった。もちろん、日本の競技人口五百名程度というマイナーな格闘技である。偶然に恵まれてエガーをやってみる機会を得たからよかったが、一生眠ったままの才能で終わった可能性も高く、それどころか「もしもエガーをやりさえすれば大成した人物」とさえ評価されることはなかっただろう。誰もそんな格闘技のことなど知らないからである。

 さて、そういう、一生隠れたままの取り柄があるかと思えば、誰の目にも表に出ているにもかかわらず、まったく役に立たない取り柄もまた存在する。私の古くからの友人に一人、生まれつき非常にヒゲが薄い男がいて、どれくらい薄いかというと、一ヶ月か二ヶ月に一度、散髪屋に行くたびに剃刀を当ててもらうだけでまったく目立たないほど薄い。そればかりではなく、日常、剃刀を肌に当てたりしていないからなのだろうか、彼の顔の皮膚は非常に奇麗なのである。だが、それでは彼のことがうらやましいか、憧れるか、というと別にそんなことはない。はっきり言うと、むくつけき三〇男が肌だけモチ肌というのは、これはもう酸鼻な話なのである。

 そんな奇人ならぬ我々男性は、やはり毎日ヒゲを剃らなければならない。もちろん、毎朝寝ぼけマナコで肌に剃刀を当てるというのは大変な手間であって、ヒゲなど永久に生えてこないようにできないものか、と大学生の私はよく思ったものだ。考えてみれば、今の日本だけに話を限っても、一旦剃らないことに決めたらそれはそれで剃らなくて済むような気もするが、まあよい。都市部に生きる私については、文化的審美眼的社会的交友関係的圧力がやっぱり存在してしまうのは確かであって、やはりいかにも日々ひげ剃りにしてひげ剃りを繰り返さねばならないのである。そもそも、昔放置してみた経験から、私のヒゲが伸びかけた状態というのは、よく伸びる部分、伸びない部分がマダラになって怖気を震うほど見苦しい、ということを知っているのだ、私は。

 ある理由から私は、ここ一年ほど、電気剃刀ではなく、安全剃刀を使ってヒゲを剃っている。この剃刀、ヒゲ剃りというのも妙なもので、刃物だから、買った瞬間から使い続けるにつれて性能が確実に劣化するのだが、ここでおしまいこれ以上はつかえません、という境目が存在しない。肌に当てている感覚で、だんだん切れ味が悪くなっていくことはわかるものの、さあ取り換えよう、というタイミングは実にあいまいなもので、別にあと一日使えないかというとそんなことはない。刃物以外でこういう性質を持つものを考えてみたが、見当たらない。自動車や自転車は確かに買ったときに最良の調整がされていて以後劣化するわけだが、この各部は調整が利き取り換えも可能である。今思ったが、歯ブラシは近いかもしれない。これも、毛先が惨めなありさまになってくると、どこで取り換えるか、毎日悩むものだ。

 さて先日、そうした古い剃刀を、取り換えるかどうか悩んだことがあった。顔に当てて引っ張ると、妙に引っ掛かりを感じるのである。もう寿命かな、と思って顔から離し、蛇口からの水でじゃぶじゃぶと刃を洗ってみたが、刃先は奇麗である。まだ使えなくなるほど古いとは思われない。私は、魔が差したとしかいいようがないが、自分の腕にそっと刃を当ててみた。さら、と腕に生えていた毛が奇麗に剃れて、そこの、幅三センチ、長さ五センチほどの区画が、サラ地になってしまった。

「あ、いかん」
 と、寝ぼけた頭でそう思ったのは、剃刀の切れ味にたっぷり一秒ほど感動してからのことだった。良く考えてみれば、手に一部だけ毛が生えていないというのは、かなり異常なことである。今や半袖の季節である。電車に乗っていて、つり革をつかんでいる私の腕を、隣に立った人が見て思うわけだ。ああ、四角く、剃ってある、と。いかんいかん、どんな想像をされるかと思うととてもこのままではいられない。そして、ごまかす方法は一つしか考えられなかった。私は、シェービングフォームを手に塗ると、腕に生えた毛を全部剃り落としはじめたのである。打ち明けて言おう。男性諸君。腕の毛を剃るというのは、やりはじめると、これが結構病みつきになる。ところで、いつも顔をあたっているときはあんなに剃りのこしが出るのに、どうして腕だと一回刃を当てるだけでこうも奇麗に剃れるのだろうか。私は、シャツとパンツという下着姿で一人洗面所に立ち、黙々と腕に磨きをかけつづけた。…と。
「くしゅ」
 あっという間もない発作だった。体を冷やしたことに対する反射だろうか。私の体は突然のくしゃみに襲われたのだ。反射的に腕から剃刀を離したが、見ると。見ると、腕の、ちょうど腕時計の陰になるところに、安全なはずの剃刀の刃が、意外なほど鋭い傷跡を残していた。たちまち吹きだす血を押さえた私は、救急絆創膏一枚から完全にはみ出すこの長大な傷を、瞬間、どうしていいやらわからなかった。

 とまあ、ざっとそのようなわけで、私の左手はつるつるで、かつ腕時計のかわりに包帯をしているのである。そんなわけなので、とても右腕まで剃り落とす気になれなかったのである。そういうわけ、なのだから、そんなに見ないでやってくれるだろうか、電車で出会った、見知らぬOLさん。

 ところで、エガーという格闘技はいま私がでっち上げたものなので、本気にしないように。


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