自分の格好というものにさほどに気を使わないまま輝ける二十代をきっぱりノウノウと生きてしまったわたしが言うのもおかしな話なのだが、作務衣を着て出歩くというのは、どの程度普通のことなのだろうなといつも思う。作務衣というのは筒袖の、下がズボンになった和風の作業着のことで、もともとの発祥の地である寺社のほかに、ある種の飲食店で制服のように扱われているのを見かけることがある。和服を機能的に再解釈したものと言っていい。洋服と比べてべつだん優れたところがあるわけではなく、襟元がゆったりしている分、着ていて風通しがいいような気はするが、本当は思ったほど涼しいものではない。これが普通の人々の間にどの程度普及しているものか、なにしろ街で見かけることがない種類の衣装なので全くわからない。
わたしとしては、誰かに指摘されるまでは、これはパジャマ以上普段着以下の、旅館のゆかたの眷族、あるいは「近所を歩いてもいいが電車に乗るのはやり過ぎ」集合に含まれる衣服で、これで近所をほっつき歩くのはいっこうに構わない、という感覚でいようと思っている。ただ、居酒屋に行くと従業員に間違われるのでそれだけはできないと思う。そんなことをつらつら考えながら、わたしはこの蒸し暑い土曜日、作務衣を着て近所の公園に出かけた。その、五百平米ほどのさして広くない広場で、市の後援のフリーマーケットが開かれる、との情報があったからである。
どこにも出かけるつもりのない曇り空の下、休日をつぶすにあたってフリーマーケットほど強力な存在はあまり見当たらないのではないかと思う。ツッカケの足でアスファルトをぱたぱたと踏みながら、少し汗ばんだわたしがたどり着いた広場では、既に数十のグループが、めいめいの人生を持ちよって、売りに出していた。学校の体育祭で使われるようなテントが白く昼日を反射し、大地には色とりどりのビニルシートの花が咲く。わたしは端らしき部分にとりついて、ぶらぶらと、冷やかし行動を開始した。手は懐に入れている。ここに何がしかの小遣いを入れた財布が入っているのである。
どういう心理なのか、どうもこういう買い物の場では、一つ何かを買うまでの障壁がやけに高いように思う。買わないときは全く何も買わないのだが、買うときにはあれこれどっさり買ってしまうのだ。瓶の蓋の最初のひと回しがやけに重いように、あるいは荷車が最初の一押しにうんと力がいるように、静止摩擦係数がある種類の事柄なのだろう。であるからして、フリーマーケットに出品するときには、買いやすい小物を何か一種類用意しておいたほうがよい、と買ったことはあるが出品したことはないわたしは思うのである。とりあえず目の前のこの若者は、その点で失格かもしれない。そんな得体のしれない彫像ばかり置いて誰が買うというのか。だいたいその全体の印象がかろうじて動物らしき像は、何を彫ったものなのか。わたしは喉まででかかった質問をぐっと飲み下して、次に進んだ。
もともとが暇つぶしである。何か身のある収穫がここから得られる、と思っているわけではないのだが、何の収穫もないまま一列を見回ってしまうと、妙に落ち着かないような気がしてくる。このまま、手ぶらでアパートに戻ったら、さぞや後悔するだろうな、と思うのである。わたしは青いビニールシートの上に座ったおばさんが出品している、傘骨というのか、傘のように開く形式の物干しにたいへん興味を引かれながらも、さすがにそんなものを持って帰る気はせず、素通りした。百円なら安いとは思うのだが。
わたしが足を止めたのは、実家でよく使っていたような藁のござの上に、古道具をごちゃごちゃと置いた店(といっていいのかどうか)であった。古道具といっても、什器や書画のような普通の品物ではない。実験器具、計測器の類が並んでいるのだ。人体模型の部品だけ、羅紗を引いたケースに収まったプリズム、真空デシケーター(乾燥保存箱)、箔の破れた箔検電器などなど、小学校の理科の準備室から発掘されるような品物ばかりである。初代マッキントッシュほどの大きさでメーターがついた箱を何かと思って見たら、交流電流計だった。立派な皮のベルトがついている。材質はなんと桐だ。
店をみている、見事な銀髪の初老の男は、電流計をためつすがめつしているわたしに何も話しかけず、ぼうっとわたしのほうを見ている。作務衣を変に思っている、ということではないだろうが、わたしは思い切って、聞いてみた。
「これ、いくらくらい」
男は一泊おいて、喧騒の中、かろうじて聞き取れるくらいの大きさの声で答えた。
「あい、シェん円」
高い、のだろうか。大きさといい、ただの酔狂で買えるものではないが、作りもしっかりしており、メーターもよいよいになっていない。どうやらまだ動作するらしい。わたしは、これが初めての買い物でなかったら、他になにかきっかけがあれば買うんだろうなあ、と考えながら、ひとつうなずいて電流計をもとの場所に戻した。と、隣にある時計らしきものに目が行った。
クロム色というか、曇った銀色をした直径十センチほどのその時計は、大きめの懐中時計といった風情であるが、文字盤には日付と月の他に、年まで出るようになっている。面白いことに、時計はちゃんと二千一年六月三〇日午前十一時三十分を指して、時を刻み続けている。ずいぶん古いのに、動いていて、かつ今の西暦年まで表示できているのだ。他にも意味のわからない子文字盤や、表示窓がある。シンプルな彫刻がされた大きな竜頭がついているが、そこにあった紐や鎖を取り付ける環は、なくなってしまっている。
「おじさん、これ」
「あい、七シェん円」
「いや、そうじゃなくて」
時計に添えられた段ボール紙に、こう書いてあったのだ。「タイムマシン」
「タイムマシン、って、どういうこと、おじさん」
「あい、タイムマシン。買っていって」
「あ、いや」
まさか、フリーマーケットの片隅でタイムマシンを売っているとは思わなかった。七千円とはずいぶんな値段だが、九兆円と言われなかっただけマシだろうか。しかし、真実味はなくはない。本当に時間を自由に移動できるという意味でのタイムマシンではないだろうが、それを目指して、それらしく作られたフェイクとしても価値があるように思えるのである。文字盤の下部には筆記体で「Time Flies」と格言めいた言葉が一言、書き添えられている。
「わかった、買うわ。この時計と、電流計」
「あい、八シェん円」
財布の中にそれだけ入っていたのが良くなかったと言ってもいいが、こうなったら合わせて一本それまで、である。わたしは「タイムマシン」を財布と一緒に懐に納めると、電流計をかかえて公園を後にした。
というわけで、今、アパートに帰ってきて、文章を書いているところである。電流計が本当に動くかどうか試してみたいところだが、いきなり家庭用電源を繋ぐわけにもいかず、とりあえず置物としてタンスの上に安置した。色が調和して、なかなか見栄えがいい。さて「タイムマシン」のほうだが、これが、竜頭を回したり、押したりしていたら、中でなにかが折れる音がして、うんともすんとも言わなくなってしまった。とても残念である。動き続けているのなら、放っておけばよかった。
ところで、今日は土曜日だと思ったのだが、違ったのだろうか。