以前からときどきは来ていたのだが、この一ヶ月ほど、電子メール経由のダイレクトメール、いわゆるSPAMが目に見えて多くなってきた。種類はさまざまだが、そのほとんどが、何らかの形で性欲に関係したメールである。その、アイデアとバリエーションの数々を見ていると、この手の商売にだまされる人々から流れ込む資金は、ここにつぎ込まれた思案と手間に見合うほどのものなのだろうかと疑問に思うほどだが、まあ、そうなのだろうな、と苦笑するしかない。
今の私のように、一つの差し出し人からのメールが急増した、というのではなく、あちこちから寄せられるSPAMの、頻度だけが高くなるというのは、もしかしたら、どこかに「SPAM業者ご用達、SPAM用送信名簿」なるものがあって広く使われており、一ヶ月ほど前にに私の電子メールアドレスがそこに載せられてしまった、というような事情があるのではないだろうか。ここで、ちょっと間が抜けていておかしいのは、このSPAMが急増したアドレスが、今や私が使わなくなって久しい、昔のメールアドレスであるということだ。チェックも頻繁にはしないのだが、あるとき数日おいて見てみて、新着メール十五通のうち十一通がSPAMだったときには少しあきれた。残りの四通もメールで配信されるニュースだったので、これではまるで、友人がいない家の、ピンクチラシでいっぱいの郵便受けのようである。
友人がいない、と書いたが、そういえば、よくあるという「チェーンメール」の類を、これまで受け取った記憶がない。五通コピーして出さなければ脳みそぶちまけて死にます、などと書いてある昔ながらの不幸の手紙以外にも、AOLから流れてきた実はデマであるウィルスの情報や、小粋な小話集、あるいはある種の血液が足りないから献血を要請する旨など、誰かから何かしら送られてきても良さそうなものだが、いまだかつてそういうものをもらったことがないのである。こういうのは、ある程度親しい友人が送ってくるものではないだろうか。やはり、友達がいないのかもしれない。
実際にウチに来たわけではないというのが、また私の友達の少なさを暗示しているのかもしれないのだが、中学生の頃、郵政省が配達する葉書をもって、クラスでチェーンメールが流行していて、友人に見せてもらったことがある。北海道のどこかから出発していま何連鎖目であるが、これが何連鎖するとギネスブックに掲載されるのでぜひ開始者に教えて欲しい、などと書かれていたりするものだ。もうひとつ、「幸福の手紙」も見せてもらった。次の人に回せば幸福が得られる代わりに、止めたらやっぱり脳みそぶちまけることになるのであるから、「こっくりさん」とは別物という建前で、しかし扱いをおろそかにするとやっぱり呪われる「キューピッドさん」のようなものだなあ、という感想をもったことを思い出す。こういう手紙が、ときおりどこからかやってきて、どこかに消えていった。
そういう、誰かが模倣したに違いない派生物と違って、プリミティブな、モノホンの、マジな、ガチンコな不幸の手紙は、かえってなかなか見ることができないものだが、その中学生時代よりも昔、一度だけ、父の名前宛で本物の「不幸の手紙」が届いたことがある。七日以内に五人に出して下さい、どこそこの誰かさんは止めたために何日後に死にました、という典型的なもので、父が、一笑に付したものの、やはり少し気味が悪かったのだろう、わざわざ灰皿でライターの火をつけて、燃やしていたのを覚えている。徐々に真っ黒になって、灰になってバラバラに崩れ落ちるまで、小学生だった私は憑かれたようにその葉書を見ていた。
つくづくと思った。「止めれば死ぬ」などという脅し文句は怖くない。これはしょせん、小学生にだってわかる、たわ言だから。しかし、そういう文句の書かれた葉書を受け取ったとき、それを自分に転送しようと考える人がいることは、超自然的な内容に関係のない、事実なのだ。そこに、自分が死ぬことが恐ろしさに、私にその呪いを押し付けようという、悪意が確かにあるのだ。そういう考えで見たとき、不幸の手紙が来たからといって気にしないでおれるものだろうか。
今の時代に置き換えて考えるなら、たとえば、こういうコンピューターウィルスはどうだろう。まずこのウィルスは感染してしばらくの間、持ち主のコンピューターの使用状況をモニターし、どこにメールを書いているかチェックする。そして、一定期間(七日、というのがいいだろうか)経ったあとで、突如として持ち主に問うのだ。あなたのコンピューター内の一部のデータを消去しました。データはまだメモリに残っておりリストアが可能ですが、電源を切ったり強制リセットをかけると失われます。あなたには二つの選択肢があります。ひとつはこのままデータをあきらめること、もう一つはあなたのメール履歴に残ったメールアドレスのうち五つ(あなたが選べます)にウィルスつきメールを送り、相手に感染させるか、です。「どちらを選びますか」、と。
このウィルスは不幸の手紙とまったく同じ構造ではあるが、一つだけ違いがある。「止める」ことに伴って実際に不幸が訪れる、実効性のある呪いである点である。実際にはウィルスに対する防御手段がさまざまにあることや、もとよりパソコンのシステムはそこまで脆弱ではないことをとりあえず考えずにおくとして、あなたはこのウィルスの被害から逃れ得るだろうか。つまり、あなたに不幸の手紙を送ってきた同じ人が、あなたにウィルスを送ることをためらうだろうか。不幸の手紙を書くような人は、止めれば実際に被害が出ると「信じる」からこそ次の人に回すのであり、たわ言ならぬ実効性があるウィルスだって、おかまいなしに、あなたに送り付けるのではないだろうか。
こうも言えるだろう。呪いは怖くない。呪いをかける人間が怖いのだ。手紙でやってくる「呪い」などというものに何の効果もないのは当然としても、その呪いを私にかけることに何の痛痒も感じない人間がいるのは確かで、そしてその人が、いつなんどき、実効性のある呪術的手段を手に入れるかは、わからないのである。
あるいは、そういう手段が、じつは結構存在するのが、現在という時代なのではないかと思う。極端な話、差し出し人持ちだった手紙に要する費用が、電子メールになって受取人持ちになっただけでも、実効性のある呪いになっているとは、言えるのではないだろうか。届いたSPAMメールを一通一通ゴミ箱にドラッグしながら、近ごろそういうことを考えている。