前にもちょっと触れたが、いやもう、心理学の本はどうしてこんなに怖いのか。いましがた読み終わった本が恐ろしくてならなかったので、あなたにも同じ気持ちを味わってもらおうと、こういう文章を書いているわけだが、もしあなたが昼間、職場などで、衆人環境のもと、この文章を読んでいるとしたら私は残念に思う。ぜひ一人で、落ち着いて読んで欲しいのだ。私は今回思い知った。心理学のような本の怖さも、怪談と同じように、夜中に一人で読んでいるとずっと怖さが高まるようである。夜中の三時ごろ、同居者が寝静まってからというのがお勧めである。一人暮らしなら、なおいい。
都市伝説として有名な怖い話の一つに「白い糸」というのがある。あるとき、友人のピアス穴から白い糸の切れ端が出てきたのを発見した。思わず引っ張ってみたら、少し伸びた糸がぷつりと切れる。と、友人が、
「あれ、誰が電気消しちゃったの?」
と言い出す、というものだ。この怖さは、人間が本質的に、自分の体のことをわかっていないこと、どのようにして動いているものかわからないものであることから来るものであると言えるだろう。耳たぶに視神経の一部が通っていたりしない、ありえない話だと、聞き手がにわかには言い切れないからこそ、秘密めいた、実際にあった話としての恐ろしさをともなって「どこかの誰かの話」として、恐怖を巻き起こすのである。
私が感じた、心理学の怖さもこれと似た一面がある。自分で自分のことがよくわかっていなかったことに気が付くこと、これが怖いのである。しかも、この怖さは、白い糸の話と違って、どうやら本当の話である。こんな恐ろしいことがあるだろうか。
頭を切開して、脳に電極を繋いて、電流を流すことで刺激を与える。脳というのは結局のところ、電気信号によって制御されている、脳細胞を単位として作られた複雑な回路なので、繋いだ電極によって一種の誤作動を起こす。どこに電極を繋ぐかによって結果はさまざまなのだが、あるとき「笑いを生じさせる部位」というものが発見された。ここに刺激を与えると、被験者は、笑う。
それだけなら、まあ「そういうことはそりゃ、あるだろうな」程度の話である。話はこれで終わりではない。その被験者にそのとき、絵を見せていた。その絵というのはただの馬の絵なのだが、電気的刺激を加え、笑った被験者が、こう言ったそうである。
「見てよ、この馬の絵、おかしくって」
普通の馬の絵なのである。
心理学の本なので、このあたりの記述は実に淡々としているのだが、読んでいて背筋がぞっとした。どうも、脳には、あるいは人間の精神には、自分が思わずやってしまったことに対して、時には明らかに不合理な説明をつけて納得する作用があるらしいのだ。これは怖い。自分が「電気的刺激」によって思わず笑ってしまったことに対して「馬の絵がおかしかったから笑ったのだ」という説明が、すかさず用意され、それに何の疑問も持たない、というのは相当怖い話である。自分の反応に対する認識という、非常に基本的な機能がそれほどあいまいなことである、と知るのは、足元がぐらぐらするような恐怖がある。
この話についてよく考えてみると、これは、生理的に笑いやすい状態だったので笑ってしまった、というような場合でも、自分の反応がおかしいとは考えずに、自分は正常で相手の芸がおかしいから笑ってしまったんだ、と判断しやすい、という、実はよく知られた原理にたどり着く。テレビのお笑い番組に入っている、観客の笑い声がそれである。みんなが笑っているからつられて笑っているだけなのに、芸が面白いものだと、勘違いしてしまうのである。よく、どうしようもなく悲しいときに、嘘でもいいから笑っていればそれだけで気分がほぐれてくるものだ、という人生訓のようなものがあるが、これも同じような精神の働きによるものだろうと思う。
試してみよう。たとえば、次のような駄洒落があったとする。
「腐ってもタイガーウッズ」
ぐへえっ、と言ってしまいそうなダジャレである。クスリとも笑えない。むしろムカムカしてくる。しかし、これを、無理やりでもいいから笑いながら読んで欲しい。できたら声を出して。
「あはははははっ、腐ってもタイガーウッズ。ひゃはははははっ」
真面目に声を出して笑った人は、相当なおかしさを感じられたのではないだろうか。なに、感じられない。それは、真面目に笑っていないからである。真面目に笑うというのもおかしな表現だが。やりなおし。
「ぷ、くふふふふふふ。だ、ははははっ、はははっ、ひゃひゃひゃひゃっ、腐っても。腐っても、ひゃははっ、あはははっ、はっ。腐ってもタイ、タイガー。ぷ、くひゅひゅひゅひゅ、ウッズ。腐」
どうだろう。自分で書いていて何だが、タワゴトを書くつもりだったのにちょっと説得力が出てきてしまって、なんだか参っている。夜中で一人で怖いときにも、とりあえず、笑って生きてみよう。