ベルは鳴り響く

 プロポーズ、などと、言葉を使って書いてしまうとなにやら恥ずかしくてならないのだが、まあそういった、結婚の申し込みをして、きちんと確認しておく、ということは、いくら恥ずかしくても人生のどこかでやらないと、これはやはりどうしようもないわけで、その頃の僕はいつそれを切りだすか、そういうことばかり考えて彼女と一緒にいる間中、頭脳をひたすらぶんぶん回転させていた。

 もちろん、中学生や高校生の告白ではないのであって、結婚を切りだすや彼女に「あれ、私たちってつきあっていたんだっけ」などと、血も凍りそうなことを言われて、もう彼女を殺して僕も死ぬしかない、などという事態に陥ることはまずないだろうし、それどころか彼女の方でもおそらく何らかのそういう言葉があることを察知して、待ってさえいることだろうことはいくら僕でもわかる。だから、これはプロポーズの言葉なんか、もういつだって何だっていいわけだが、いやまて、考えてもみよう、いきなり「結婚しよう」というわけにもいかない。いや、言ってもいいのかもしれないが、人生のいずれかの時点で誰かに必ず「プロポーズの言葉は」と聞かれることがあるに決まっているので、そこで返事が「『結婚しよう』でした」というのも、これはこれで老後の楽しみが一つ減るような気がするのである。

 といって、味噌汁云々、僕のお墓に云々、といった使い古された言葉はもはやギャグにもならない時代である。あるとき、ひとつ「この桜の苗が花を咲かせるところを二人で見よう」という言葉をどうにか考えたことは考えたのだが、これを言うためにはまず桜の苗を植樹せねばならず、そのためにはまず庭付きの家を持たなければならないので、僕の境遇ではとうてい使えない、ということで不採用となった。あなたがもし、庭付き一戸建てに住む嫡男の人なら、このセリフ、差し上げますので有効に使って下さい。

 というわけで、他にいい言葉も思い付かなかった僕はもう、タイミングが来たときにアドリブでなんとか伝えるしかない、と開き直って日々を過ごしていたわけで、逆に言えば、そういうタイミングを逃さないように、ぴりぴり緊張して、楽しかるべき彼女とのデートの時間を送っていたわけなのである。
「『デシベル』ってあるでしょ」
 と、彼女がそう言ったのは、夕やみ迫る公園だった。二人でベンチに座り、屋台で買ってきたビールと、くし焼き肉を二人で分け合って食べていた。このままレストランや居酒屋に入ってしまうにはあまりにも惜しい、そんな夕暮れ。
「ああ、あれだね」
 その公園の一角には、高さ五メートルほどの塔が建てられ、現在の騒音レベルを数値化して示す、デジタルの表示板が掲げられていた。そういえば、いつも疑問に思うのだが、これはそういう表示を掲げることで市民にどういう行動ないし意識改革を迫ろうとするものなのだろう。だからどうしたのだ、という感想を持たない人はほとんどいないと思うのだが。
「あの『デシ』って、デシリットルのデシと同じなの」
「あ、ああ、そうだよ」
 その表示板に、騒音は、デシベルという単位で表されている。この公園は「48デシベル」だそうだ。

 僕はちょっと考えてから、説明にかかった。癖で手振りをいれながら喋る僕の方を、彼女はじっと見ている。なにもかもオレンジ色に塗りつぶされつつある夕焼けの中、彼女の首から下げられた金色のネックレスが、静かになごりの日光を反射して輝いていたのを覚えている。
「つまり、そもそも、『ベル』という単位があるんだ。本当は音の単位じゃなくて、何かと何かの大きさを比べる単位らしいよ。対数単位で、ええとつまり、0ベルは同じ大きさ、1ベルは十倍の大きさ、2ベルは百倍の大きさ、ということになる」
「うんうん。1増えるたびに十倍ね」
 こういう説明を、ちゃんと聞いてくれる、理解してくれる、というのが、つまり彼女のいいところなのだろう。彼女はぱっと見た目の性格と違っていわゆる「聞き上手」に属する女性であって、「説明したがり」の僕には、本当に得難い伴侶となりうる人なのだと思う。たぶん、僕はこれから一生、彼女になにかを説明して生きてゆくのだろう、と思う。
「ただ、それだとおおまかすぎて使いにくいから、デシベルにして、1リットルが10デシリットルになるみたいに、使っているわけなんだ。デシベル数が10増えるたびに十倍、10デシベルは十倍、50デシベルは、ええと、十万倍の大きさ。この場合は、音だから、何か基準があって、その何倍、ということを表しているんだと思う」
「ふうん。じゃあ、ベルって何。非常ベルとか始業ベルのベルのことなの」
「いや、ええと、そんなことはないと思う。たぶん、グラハム・ベルの名前からじゃないかな、電話を発明した」
「あ、そうか。エジソンと発明競争をして、ちょっと早かったらしいね」
「うんうん」

「それにしてもさ」
 と、最後の肉を僕に差し出して見せて、かぶりついた僕が固いその肉をなんとか噛みきろうと苦闘している間に、彼女はこう続けた。
「ベルと言えば、『電話のベル』って、出来過ぎじゃない」
「え、ああ、そだね」
「ベルもベルが発明したのかな。つまり、非常ベルの、ジリリリリ、というあのベルのことだけど」
 僕は、肉のなごりを紙コップのビールで流し込んで、答えた。
「あ、うーん、どうだろ。まあ、最近電話というとベルでもなくなったけどね。あ、そうだ、ベルって、別にその呼び鈴のベルだけじゃないからなあ」
「そうなの」
「ほら、日本で言う、鐘とか鈴がきっとベルなんだよ。ベルマークとか、ほら、カウベル。牛の首についてる、からんからん、という音がするやつ」
「でもほら、ベルがベルを発明してから、鐘もベルと呼び習わすようになったのかもよ」
 それは考えつかなかった、と僕は彼女と顔を見合わせた。つまり、グラハム・ベル→呼び鈴→鈴という連鎖である。
「いやいや、待った、たまたまだよ、たまたま。シュワルツシルトが『黒い壁』を意味しているみたいな」
 あいや、これはわからないか。つまりシュワルツシルトさんは、これ以上恒星が小さく潰れるとブラックホールになるという、シュワルツシルト半径にその名前が付けられているのである。僕は慌てて続けた。
「あれがあるじゃないか、ウェディング・ベル。あれは昔からあるよ、きっと。電話の発明よりも、ずっと前から」
 証明終り、とにっこりうなずいた僕に向かって彼女が不思議そうな顔をして言ったことこそ、この会話を僕の記憶に生涯残ることにした一撃だったろう。
「ウェディングベルって、なによ」

 なんだって、と聞き返さなくて、本当によかったと思う。僕は気がついた。これは、つまり、待ちかまえていたタイミングじゃないか。僕は、なんとか、こういう言葉を言うことができたのだが、声は震えていなかった、と思う。
「聞いたことないの、じゃあ、その、僕と一緒に聞いてみないか、ウェディングベル」
 彼女が見せた、嬉しそうな、そしてどこか得意げな笑顔は、どうだったろう。猫が捕まえた獲物を飼い主に見せに来たときというのは、猫はああいう顔をしているものではないだろうか。
「わたしでよければ、喜んで」
 そう言った彼女をぎゅっと抱き寄せて、顔一杯の笑顔を返しながら、僕は、たぶん一生こんな感じで、最後には彼女に主導権を握られるのだろうなあ、と思った。誓って言うが、それは僕にとって、べつだん、不快な未来図ではなかった。


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