静子の海

 小さいころから、人嫌いだった。友人たちとは適当につきあっていたけれども、どことなく周囲から自分が浮きあがっているような気がして、親切、友情、あるいは愛情のような、他人のそういう感情を信じてそこに飛び込んでゆくようなつきあい方が、どうしてもできなかった。中学校三年間の忘れがたい思い出といえば、友達や先生たちとのそれではなく、教室の窓から見上げた青空、夕焼けに向かってかなたを飛んでゆく飛行機雲、あるいは、これだけは力を入れていた水泳で、飛び込み台を蹴って水中に、周囲の空気が水に置換される、あの瞬間。ひとことで言って、やっぱり私は人間が嫌いだったんだろうと思う。

 クラスメートが美麗みれちゃんだの神人かむとくんだのという時代に、私に静子なんていう古くさい名前をつけた親は、実にはやばやと、自動車事故で二人揃って逝ってしまい、高校生だった私は天涯孤独の境遇に陥った。幸いこの時代、お金と、勉強をする時間を必要としている健康で人間嫌いな十代女性が選ぶ道はいくらでもあって、その一つが、月で暮らすことだった。

 そういうわけで、ここは月面。私はトライアック・ルナー社が所有する地球行きマスドライバー(※)の保守作業員をしていた。ロボットたちが月の砂に含まれたヘリウム3を採掘して、精製して「ヘリウム缶」に詰め込み、地球の低軌道、核融合発電所にむけて打ちだす、その作業全般の保守点検を、ときたまやればいいだけの仕事。実際のところ、孤独に耐えることができれば三歳の子供にだってできる仕事だ。人件費や生活資源の都合で、一年間の任期を一人用の監視所で暮らし、勤め上げることになる。同じマスドライバー群で仕事をしている、たった三人の同僚は月平線のかなたにいて会ったこともない。別に会いたいとも思わない。

 地球を離れ、月で暮らす上での注意は二つある。まず、六分の一の重力とそれが要求する定期的なトレーニング。月の重力で体を甘やかし筋力を落としてしまって二度と地球に帰れなくなってもいい、というならこれは不要だけど、私は嫌なので、朝晩かなり激しい運動を続けている。もっとも、今やこれはすっかり日課になってしまって、サボったりすれば世間が許しても体が許さない。
 もう一つは、全てが十分な安全率を見越して、フールプルーフで組まれているとはいえ、油断するとやはり待ちかまえている、酸素切れや動力切れだ。どちらも月面作業中には致命傷になる。ただまあ、こちらもよほどの事故が重ならない限り、今や数万の研究者や作業員が散らばって暮らす、月面での日常は「危険と隣り合わせ」とは程遠いものがある。ぶっちゃけたはなし、地球にいたって事故で死ぬことはあるのだ。父母のように。

 私は、この任地に向かうときに、パソコンを一台、私物として持ち込んだ。レーザー通信端子がついていることが唯一の取り柄の、古いノートパソコンだ。私は、よくこれを地球が見える窓際の机の上に置いて、地球軌道上の通信衛星を通して、インターネットに繋いでいる。そうして基地のネットワークを通さないで、個人的な通信を行いたい時があるのだ。

 月と地球の距離は三八万キロ、一秒で光は三〇万キロメートル進めるから、私が呼びかけて、それに地球の誰かが反応して、返事が帰ってくるまで二秒半ほどかかる。ネットワークでも、私のレスポンスは常に二秒半分、どうしても遅れてしまう。でも、それが何か問題になることは、実はあまりない。音声や動画のダウンロードは、別に何かが往復しているわけではなく、レーザーの速度で向こうからこちらへどんどん送られてくるわけだからまったく問題ないし、双方向通信だって三秒以内の対応を求められることはほとんどない。電話でもすれば別だが、たとえば、私がリアルタイムチャットに参加していたとして、あなたはそのことに気がつくだろうか。言っておくが、私のタイプは、かなり速い。

 私には、インターネットでの、薄いうわべだけのつきあいがよく合っているのかもしれない。クラスメートと雑談をするかわりに、暇な時間、私はあちこちの掲示板に書き込みをし、チャットをする。あとの時間は、通信教育の課題をこなしたり、書籍やビデオゲーム、それからもちろんテレビ。CATVも携帯電話の電波も届かない日本の片田舎よりは、月はよほど、通信事情において恵まれている。たまに、チャット仲間からオフ会に誘われるときだけ、ちょっと残念に思うが、では地上に住んでいたとしたら出かけていったかどうかは、わからない。

 その時も、私は暇を持て余して、あるグループでのチャットを楽しんでいた。参加者は「酒男」さん「くじらねこ」さん「デビス」さん、それから「シズカ」というHNを使っている私。話題は実にくだらない、二人の人気歌手の、どっちがどっちを剽窃したかというような話題だった。こういうメンバーと、どこで出会って、たまたまこういう関係になるのか、きっかけというのは不思議なものだ。一人一人について良く知っているわけではないが、酒男さんは二十代後半くらいの男性、くじらねこさんは同じかちょっと上くらいの女性、デビスさんは二十歳前後の男性だろうか。その頃の私は、もっぱらこのほか十人くらいの人たちと、なんとなく「仲間」とでもいうような、関係にあった。

 酒男さんが、結局音楽というものはすべて剽窃である、という身もフタもない意見を書き込んだ瞬間だったと思う。部屋にシステムからの警告音が響いて、私は現実に戻った。慌ただしく「仕事。ちょっとオチる」と告げておいて接続を切った私は、社のシステムで状況をチェックして、げんなりした。私の管轄内に五基あるマスドライバーのうち、一番北側の五番射出機が、また不具合を訴えている。これはそもそも着任当時から「要注意ドライバー」としてチェックが入っていたもので、しょっちゅう加速力が落ち、そのまま使っているとヘリウム缶をあらぬ方向に向けて打ちだしてしまう。そうならないようにフェイルセーフが働いて射出を停止するのだが、部品を交換し、加速力が回復しても、すぐまたこうしてエラーを出しはじめるのだ。ドライバーの部品交換には、作業車で月面上をとことこ往復しなければならない。簡単な仕事だが、面倒には違いなかった。

 私は、月面服を着込むと、ノートパソコンを抱えて、エアロックから作業車へと乗り込んだ。作業車は気密が保たれているから、月面服は用心のためのものである。必要な作業も、現場を調べてみて簡単なものであることがわかれば、車外マニピュレーターを使うか、いっそロボットに指示を出しておしまいにすることができる。そうして空き時間ができれば車内からネットに繋ぎ直すこともできるだろう。チャットの続きに何と書こうか考えながら、私は五番射出機に向けて、車を走らせた。

 あっ、という間もなかった。気がついたときは、私は、運転していた作業車ごと月面上に横転していた。後から聞いてみると、私のすぐ近くに、例の悪質ドライバーから射出されたヘリウム缶が不時着し、破片の一つが作業車を直撃したのだそうだ。衝撃が大きすぎたのか、私は逆に妙な非現実感の中にあって、横転した座席に座ったまま、夢中で作業車のシステムをチェックしていた。何かが車体を貫いたのだろう。作業車の気密が破れ、車内の空気が外の真空へ、一瞬で吸い出されてしまっている。月面服の気密が破れなかったのは奇跡に近い。駆動系電装系のほとんどがダウンしている。こういうときは焦って自力でなんとかしようと思うより、救助を待ったほうがいい。私は、月面服の気密と空気残量を確認すると、とにかく通信手段を探した。車載電話。だめ。位置情報システム。だめ。月面服の通信機。応答なし。と、ノートパソコンがあった。私は空の一角に浮かんで動かない地球にアンテナの狙いを定めると、通信を試みた。運良くレーザー通信が確立され、接続が復活する。
「誰か助けて。シズカです。今、月面です。月面車が故障して、身動きが取れません。現在位置はキャンプ・トライアックから北105、西96付近」
 真空中での動作を保証されていないノートパソコンは、ソフトを立ち上げたままだったチャットを通して、それだけをやっと送信し終えると、画面が真っ暗になって息絶えた。液晶か、バッテリーだろうか。私は、壊れた作業車から這い出してしまうと他にすることもなく、作業車の陰にぽつんと座って、そのまま星空を見つめていた。チャットの参加者の誰かが、あれをしかるべきところに転送してくれるだろうか。それとも、いたずらとして黙殺されるだろうか。レーザー通信で通信衛星に位置は記録されるし、基地にも作業記録は残っているはずだが、もしもSOSがうまく伝わらなければ、助けはすこし先のことになる。私は、この岩と砂と真空の支配する月面で、たった一人、目を閉じて、酸素をむだ遣いしないよう、できるだけ安静に、呼吸をゆっくりにしようとした。ゆっくり、ゆっくり。

「シズカ」
 と揺り起こされて、私は目が覚めた。真っ黒いサンバイザーの向こうに表情は伺い知れないが、そこに一人、月面服姿の人が、ひざまずいて、こちらにヘルメットを押し付けていた。こうすると、ヘルメットの震動で、直接声が伝わる。
「あ、その、こんにちは」
 私は、しどろもどろになりながら、そう応えた。思えば、声を出したのは久しぶりだ。と、待った。今確か、シズカと呼ばれた。静子ではなく。

「こちらでははじめまして、というんだっけ。おれは『酒男』。本名は高崎幹夫と言います。いや、驚いたよ、さっきまでチャットしていたシズカが、月面で助けを求めているんだもの。絶対誰かのいたずらだと思ったら、会社のシステムの方からも作業警報があって、ここへきてみたわけ。壊れた作業車を発見して、そばに君を見つけたときは、本当に心配したよ。まさか、寝ていたとはなあ」
 一通り、私の月面服の損傷状況や酸素残量を確認したあと、私の作業車の牽引準備をしながら、そんなふうにしゃべりまくる「酒男」の姿を眺めながら、私は、やっと鈍い頭がまわりはじめたような気がしていた。よりにもよって、お互いに十キロほどしか離れていない同僚の一人と、ネットを通じてチャットをしていたなんて。つまり私は、期せずして、もっとも早い救助を求めたことになったのだ。
「いやいや、礼には及ばない。業務だからね。でもまあ、幸運だったなあ。おかしな話だけど」
 やっと、あいまいなお礼の言葉を言おうとした私を遮って、高崎幹夫はそう言って、こちらを見つめた。月面服のヘルメットが、この荒涼としたモノクロームの世界を写している。私は不思議な感覚にとらわれていた。長い間、他人との接触を持ちたいと思ったこともなかったのに、こうして「酒男」の姿を見るのは不思議に頼もしく、愉快なことだった。そして、こういうのも「オフ会」って言うんだろうか、と、そんな変なことを思い付いて、私は声を出して笑った。


※ mass driver:質量射出機。地上から、電磁気的に加速した貨物を、宇宙に打ち上げる装置。月では重力が小さく、また空気による摩擦がないので、ロケットなど他の手段に比べて、初期加速の電力のみで運用できるなどの利点から、貨物の対軌道打ち上げシステムとしてこの手のシステムが採用される可能性が高い、とされている。イメージしがたければ、「銀河鉄道999」の線路のようなものを想像すれば、近い。
トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む