笑ってお仕事

 若さゆえの、無知ゆえの無鉄砲ということは確かにあって、私も三〇歳前といえば決して若すぎはしない歳だから、昔の無鉄砲さを思い出して一人顔を赤らめることもある。しかし一方、若くなければできなかったことというのも、言われているほど多くはないと思うものの、なにかあることは確かであって、それこそが若さの力なのだろう。

 人間という種そのもの、そう大げさに言わなくとも日本の文化においても、老熟というべきことはある。文明そのものが青年期を脱し壮年期に入りつつあるのかどうか、ここには大いに議論の余地はあることと思うが、かつて当たり前に行われていたことが「よく考えた」結果できなくなった、されなくなった、ということがたまにあるのは確かである。まず誰にでも納得してもらえそうな例が廃棄物の処理方法についてだが、身近なところで言えば、「運動会の騎馬戦、棒倒し」であったり「父親参観日」であるかもしれない。現在の教育の現場では、前者は児童の怪我の危険性から、後者は何らかの理由で父親が参観に来ることができない児童に配慮してどちらも行われなくなりつつあるという話を仄聞する。確かにもっともな話であって、まず受け入れるべき判断であるとは思うが、しかし、一抹の寂しさのようなものを覚えるのは「文明が若かったあのころ」への、何事も深く考えていなかったかつての教育法に対する郷愁にも似た感情ではないかと思うのである。

 さて、ぐっと卑近なところで、科学の世界を見てみると、同様に日本の文明が若かったころだからこそできた無茶があって、物理学用語の翻訳というのは、これがいつ誰が行ったのかわからないものの、ずいぶん乱暴なことをしている、と思うところがある。たとえば、高校生の理科で習う「速さ」と「速度」という概念について、疑問に思った人はいないだろうか。高校生の物理では、この二つの言葉は、一般社会で使われている言葉の意味をとりあえず忘れて、似てはいるけれども別物と見なされる。端的には「速さ」は従来通り単位時間あたりの移動距離(スカラー)だが、「速度」は速さとその方向を含んだ量(ベクトル)として扱われるのである(少なくとも物理の授業の時間中には)。高速道路ですれ違う二台の車は、たとえ速さが同じだったとしても、速度は反対向きで、違っている。と見なされる。

 言うまでもなく「速度」という言葉には本来そんな意味はない。単に「『速さ』の、ちょっと偉いやつ」「『速さ』が成って『と金』になったようなやつ」ということで漢語を引いてきただけなのだろう。なお、英語でいうとこれはspeedとvelocityにそれぞれ相当して、後者はラテン語の「速さ」から来た格式語なので、そのあたりの事情は英語も変わらないようである。うまい翻訳というべきか、日常の言語感覚から遊離しているというべきか、難しいところがあって、今の物理学者がこれを日本に導入することになったら、迷わず「スピード」と「ヴェロシティ」とカタカナ語で直輸入してしまいそうである。

 同時期に習うことになる「仕事」も、同じような言葉である。物理学でこの言葉を使うとき、この言葉の意味は「力に逆らって物体を移動するとき、その力と移動距離を掛けた量」という、言葉で書くとなんだかよくわからないもののことを指す。仕事の大きさは、力の大きさと移動距離の積で定義されて、エネルギー(これは翻訳されなかった例だ)と同じ意味を持つ単位である。あるもの(たとえば人間)からあるもの(たとえば荷物)へ受け渡されたエネルギーの大きさ、と粗っぽく言い換えることもできる。それにしても、おそらくは三歳児でもなんとなく意味を知っているに違いないこの言葉を、こういうゴツい物理量を呼ぶ言葉として採用した、ということこそ、たたえるべき蛮勇ではないかと思うのである。

 この言葉はなかなか含みのある翻訳である。まず、いくら頑張っても、荷物が重くて動かなかった場合、その仕事はゼロになる。力×移動距離なので、移動距離がゼロだとゼロになるのだ。実に冷徹な結果主義であって、努力のいかんは全く認めらない。地面に置いてある荷物をうんとこしょと持ち上げようとして、がっかり持ち上がらなかった場合、それはテコなり滑車なりしかるべき道具を使わなかった本人が悪いのである。仕事はゼロで給料もゼロである。それでは嫌なので、たとえば簡単な動滑車を使うことにすると、力は半分ですむかわり、同じ高さに持ち上げるためには引っ張る距離が倍になって、力×移動距離は結局同じ値になる。滑車のような装置を使っても、仕事は同じになるのだ。エネルギー保存という、物理法則の命じるところとはいえ、そこに仕事という言葉が使われているだけに、いかにも含蓄があるように思えるのである。

 重い荷物を持ち上げて、支えていると、単にそれだけでどんどん疲れてゆく。荷物は動いていないので仕事はゼロであるが、これに関して言うと、なんだかだまされたような、腑に落ちないような感じがしてならない。疲れているのに仕事がゼロであることについてではなくて、仕事をしていないのにどうして体が疲れてゆくのかに納得がゆかないのである。ちょうど棚に荷物を置くように、なにかパチンとスイッチが切り替わって体力を消費しない状態に切り替わる機構があってもいいようなものだが、たぶん、人間が進化した樹上には段ボールがなかったというのが主な原因だろう、というのは一度使ったネタである。

 ところで、重い荷物を持ち上げるといえば、子供の頃読んだ小説やマンガにイヤというほど出てきた割に現実には見たことがない状況で「宿題をやってこなかった罰に、水の入ったバケツを持って廊下に立っているように命じられる」というものがある。見るからにこれはかなり辛い、とんでもない苦行のような気がしたものだが、まさにそういう理由で、私が小学生になるずっと前に、その手の罰は児童に与えられなくなってしまったのだろう。体罰という側面はもとより、教室から追放してしまうと学習が進まなくなって逆効果である、ということが「よく考えると」わかったのだろうとも思う。そして、この側面は考慮されているとは思えないものの、もちろんこの場合、仕事はゼロである。


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