サンタクロースはどこに

 こんな世の中だから、あえて言おう。十二月はクリスマスのためにある。少なくとも十二月の商店街を見回せば、そうだとわかる。自分には関係ないと思っていても、ある種の人付き合いを始めると、知らないうちになんだかそうなっていたりする。たとえば私、十二月になったとたんにこのサイト、トップページに嬉々としてクリスマスの飾りをあしらっている自分に気がついて、やんなっちゃったりしているのだが、まず、こういうサイトの人間の考えは商店のあるじと似たところがあって、機会があればいつでも「なにかしたい」と思っている。それが何であるかは、ほとんどどうでもいいのだ。私がもし個人商店を経営していたら、それがたとえ「お茶と海苔の店」であっても、十二月になったとたんに、やはり嬉々としてクリスマスの飾り付けをしただろうと思う。

 さて今回は、これがなければクリスマスがこれほど有名なイベントには決してならなかったろう偉人、クリスマスの立役者、サンタクロースの話である。白くて赤くてトナカイでジングルベルなあの人のことだ。カーネルサンダースには似ているが、ちょっと違う。もちろんバースともだいぶ違う。ダーウィンに似ている。

 いま現在、日本において「いつごろまでサンタクロースを信じていたか」という質問をすると、そんな質問まったくナンセンス世代と、なかなか面白いひと夜の話題世代の、おおむね二つに別れるようである。どこが境界になっているかは難しいが、まったくの想像として、ボーダーラインが昭和五〇年生まれであるとしておくと、まず十年も間違っているということはないと思う。この「研究内容」を読んで下さっている方はどちらかというと「ナンセンス世代」であるとは思うのだが、そもそもサンタクロースなぞ信じたり信じなかったりするものではなかった、というあなたも、ちょっと我慢して欲しいのである。

 私に関して言うと、物心つく前から、クリスマスにはちゃんとケーキを買ってきて、プレゼントが枕元に置かれるというイベントもあったりする家に生まれたのだが(別にクリスチャンであるわけではない)、だからといってサンタクロースはいるのか、と聞かれれば、悲しいかな、それとこれとは別だ、という意識だった。ちょうど、節分で豆まきをすることと、鬼の実在を信じることは別のことだ、というのと同じである。とは言え、親にその気があれば、かなりの年齢まで「サンタクロース」の実在を信じさせることは不可能ではなかったような気もする。単に親が「普通は子供にサンタを信じさせるものだとは知らなかった」「知っていたが、気恥ずかしくてできなかった」というところなのだろう。

 では、親がほぼ完璧にサンタクロースの実在を信じ込ませたとして、いったいいつ人はサンタクロースの実在を疑うのだろうか。どういうとき、人はサンタクロースを疑いはじめるのだろう。すこし詳しく考えてみよう。無垢な幼児が汚れた大人に成長し、サンタクロースの実在を信じなくなるためには、次の二つのステップが必要である。
(1)人から聞く話にはフィクションが含まれている、ということを知る。
(2)サンタクロースにまつわる話が、そのフィクションであることを知る。
 (1)の認識は、これだけでもう十分汚れた大人であるような気もするが、要するに「お話」というものは事実とは限らないのだ、ということである。どうだろう。幼児に語られる昔話の典型、桃太郎や浦島太郎や金太郎、いやちょっと金太郎は実在の人物がモデルであったりしてややこしいが、そういう話が、かつて本当にあったことではなく作り話なのだ、ぶっちゃけたハナシ嘘なのだ、と分かるまでには、これでけっこう、気付くまで時間がかかりそうな、大きな壁である気もするのである。熊と相撲を取るなど、いかにもありそうな話ではないか。

 少し大上段に構えて見渡してみると、まるで信じがたいことのようだが、ほんの三百年ほどさかのぼるだけで、フィクションというものに接する機会は(数少ない裕福な層を除けば)、父母などの周囲の人間から口伝えで伝えられる民話、あるいは僧侶の説話、祭りなどの機会に芸人によって語られるものなど、わずかなものになってしまう。おそらく、そうした物語を全て「どこかで本当にあった話である」と考えても、さして支障なく、成長し、年を取ることが可能だったに違いない。

 しかるに現在、我々の周囲にはありとあらゆる形でのフィクションがあふれている。私の幼いころには、伝統的なものに加え、既に絵本、漫画、小説、テレビのドラマやアニメが身の回りに普通に存在していた。今ではこれに、少なくともビデオ、ゲーム機、インターネットが加わっている。とてつもない増加量である。

 しかし、問題は量の増加ではない。そうした物語に「嘘」を前提としたものが登場したというのが、サンタ認識第一段階の早期クリアに、大きな役割を果たしているのではないだろうか。伝統的にどんな奇怪な話でも「この話は本当にどこかであったことなのだよ」と強弁することができていた「昔話」に代表される物語が、ある時期から「嘘だけど面白い話なのだ」と開き直るようになって、それが、かなりの幼児にまで「物語は基本的に嘘であって残る問題はサンタの物語がそこに属するかどうかだ」というふうに考えられてしまう原因になっているのではないか。一切合切を、疑いなく信じられればよかったのに。

 基本的に「嘘」であることを前提にしている物語としてはたとえば「ほらふき何とかの何とか」という類の「ほら話」がそうだが、想像なのだが、それよりも今や普遍的にお茶の間に入り込んでいる「SF」が、人々の経験において大部を占めているかもしれない。なにしろ、全ての物語の中でSFだけが「未来」を舞台にして描かれる。未来が定義からしてまだ来ないものである以上、そこに書かれている未来世界は嘘に決まっていて、現在の幼児は未来を描いた物語に出会うことで「物語は嘘である」という前提を自然に学ぶのではないかと思うのである。

 ある人が嘘をつくことがある、と知っていて、その人の言うことを信じるのは難しい。クリスマスの朝、決まって枕元にプレゼントが置いてあるとしても、それもまた誰かが自分についた嘘だと疑ってしまうのは悲しいことだ。しかし、現在に生きる子供は、三百年前の昔の子供たちと違って、そもそも「世界には嘘がある」というところから出発するのである。サンタを純粋に信じられる無垢さと、嘘を嘘として楽しめる余裕、我が子にどちらを取らせるか、と問われれば、こんな嘘サイトを運営している私である、後者を採るとしても、許してもらえるのではないかと思う。

 世界には嘘がある。だからこそ面白いのだ。メリークリスマス。


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