いつしか時もすぎのとを

 ラリー・ニーブンという人が書いた「リングワールド」というSFがあって、生み出され、描き出される世界の、目まいがするほどの雄大さ、豪快さでファンの間で忘れられない一作となっている名作なのだが、そこに詰め込まれた数多くの、やや小粒ながら宝石のようなさらなるアイデアの数々の中に「幸運の遺伝子」という考え方がある。説明すると、人口抑制のため、産児制限が非常に厳しい未来世界で「くじ」に当たったラッキーな人だけが子供を持てるという状況が背景にあって、それが幾世代にも渡って繰り返された結果、その子孫に、自分の身に幸運を引き起こす遺伝子が、自然淘汰によって授けられる、というものである。「幸運の遺伝子」を持って生まれると、なんだかラッキーなことが次々と起こる。

 このアイデアの結末がどうなったかが、「リングワールド」の物語の本筋にもかかわってくるので、詳しくは書かないが、これに関連して、今回はこんな問いを投げ掛けてみたいと思う。あなたは幸運だろうか。それとも不幸だろうか。こんな世の中ではあるが、自分の人生についてあるときしみじみと考えてみて、自分の人生はどちらかといえば幸運だった、と言える人は多いのではないかと思う。親はあなたを飢えさせたり凍えさせたりせずにここまで成長させ、出会った先生やクラスメートの中には一人も殺人鬼がおらず(いても、最後のところであなたを殺すまでには至らず)、剣呑なバイクやトラックや中央線もあなたを紙一重のところでひき殺さずにここまで成長させた。どうだい、我々は皆、ずいぶんと幸運じゃないか。

 もちろん、こんなのは当然のことだ。あなたや私がこの文章を読んだり書いたりしているということ自体、少なくとも今生きていることを意味するのだから。今あなたがこの文章を読めているという限りにおいて、あなたがこれまで、あらゆる死神の誘惑を断ち切り、この年齢まで生きてこられた可能性は百パーセントに等しい。できるなら、八〇でも百でもいいが、あなたがやがてすっかり年老いた、と思った時に、もう一度この文章を思い返して欲しい。本当に、自分の人生は途方もなく幸運だった、と思える日が来るはずである。おかしなことだ。ちゃんとその年まで生きていて思い出すことができる、という限りにおいて、この予言もやはり百パーセント成就するのだから。

 こういう思考法を、もう少し大きくとらえて、今ここに我々人類が進化したのはなぜか、というもっともな問いにある程度答えることもできる。この考え方は「人間原理」という名前で呼ばれる。たとえば我々の地球は、太陽系の九つの惑星でただ一つ、水が液体の状態で存在できる特殊な惑星である。よりにもよって、特殊な惑星にたまたま我々がいるのはなんという幸運だろうか…というのが、不思議でもなんでもなくて、そうでなければ我々のような生命は誕生しなかったからだ、と考えられる。当然なのだ。我々の星に海がなければ「我々の惑星は」と考えることができる人間自体が存在しなかったのだから(もっとも、他の種類の惑星で、別の形態の生命が誕生しないという保証はないけれども)。

 同じような推論になるが、もう少し考えてみると、たとえば、当たり前の話、あなたがこれを読んでいることは「人間というものは少なくともあなたの年齢までは百パーセント生きのびる」ということを保証するわけではない。なので、それと同じように、人類がここにいることは、生命の発生はよくあることで、ありふれている、ということを保証はしないのだ。
 もしかしたら、人類というのはたいへん珍しい現象であって、全宇宙でこんなとてつもない幸運はこの惑星の上にしか生じなかったかもしれない。あるいはすぐそこに、人類とは別の道筋をたどって進化した異星人がいたりするのかもしれないが、このどちらであるかは、他の惑星で発生した宇宙人、少なくとも異星生命体と呼べるものをいよいよ発見するまでは、直接には反証されないたぐいの問題である。

 どっちだかはわからないものの、ここでちょっと想像をしてみよう。私たちのような知性が(いや、まあ、議論のためです。私には知性があるということにしてください)実はものすごく発生しにくいものだとする。宇宙に存在する全ての惑星の中で50億年に一度とか、もっと低い確率でしか起こらない幸運が、しかも何度も重なった結果、ようやく人類やジャッキー大西が生まれた、とするわけである。宇宙の他の惑星でもう一度発生するようなものではまったくない。しかし、地球では現実にそれが起こっていて、当の地球人たちは「こういうことはよくあることなんじゃないかなあ」などと考えているが、実は宇宙でただ一種の、とてつもない幸運の種族なのだ。

 実は、こういうふうに「地球人ひとりぼっち説」を取るとすると、面白い推論ができる。我々に残された時間、というものが計算できるのだ。

 まず、人類がここまで文明を発達させるために、起こらなければならなかった「とてつもない幸運」の数を、四個とする。たとえば、とてつもない幸運で原始の海から遺伝子を備えた生命が誕生し、とてつもない幸運で真核細胞による多細胞生物が誕生し、とてつもない幸運で陸上に進出した動物の中に巨大な脳を持つものが登場し、とてつもない幸運でそこに文明が発展した、というふうに、惑星を百億年くらい見張っていて一度起こるくらいの(つまり、たいてい、偶然を待っている間に太陽が燃え尽きてしまうほどの)ラッキーな出来事が、しかも四つ立て続けに起こった惑星に私たちがいる、と考えてみる。競馬で当てた金を次のレースにつぎ込んで次々勝ちをおさめるようなイメージである。
 そういうことが現に起こった、その結果が今だ、という場合、この起こりにくい幸運の連鎖に、我々は与えられた時間、太陽の寿命をどのくらい使ってしまっているだろう。この試験の残り時間はどのくらいだろう。そんなことわかるわけがない、どの時間であるかはランダムではないか、と一見思えるわけだが、そうでもない。少なくとも、もっともありそうな「期待値」というものは算出可能である。

 今、ものすごい数の人がいて、一心不乱にサイコロを振っているありさまを想像してみる。このサイコロ振り人達が振る白いサイコロは、非常に面の数が多くて、一生振り続けても一回くらいしか「当たり」の目が出ない。「当たり」の目が出たサイコロ振り人には、赤いサイコロが支給されて同じことを続けるよう、指示される。これも「当たり」が出にくい。それでもたまたま続けて「当たり」を出す振り人が、振り人の数が多ければいるかもしれない。その振り人には黄色いサイコロが渡される。この伝で、四個目の青いサイコロで「当たり」を出したサイコロ振り人は、どのくらいの年齢が多いだろう。白髪三千丈という感じの年寄りだろうか。それとも、若い人が多いだろうか。

 そう、容易に想像できる通り、これが、年寄りの方が多いのである。詳しい計算は省くが、サイコロ振り人の寿命に比べて「当たり」が出る確率が十分に低いと(その代わりサイコロ振り人の数が多い)、青サイコロで「当たり」を出した振り人の平均年齢は、寿命のn/(n+1)になる(nはサイコロの数)。今、突破すべきサイコロの数は四個ということにしているので、寿命の4/5だ。四つの「とてつもない幸運」の末生まれる人類は、自分の持ち時間の五分の四を既に使い切ってしまっていると期待されるのだ。とにかく期待値としてはそうなる。

 面白いからもっとエスカレートさせてみよう。仮に、進化というものが一般に信じられているものと違ってどえらく起こりにくいものであって、人類という存在が、一千万個の「とてつもない幸運」の末に誕生したとする。こうなると、もはやほとんど残り時間はない。期待値として、太陽の全寿命の一千万分の九九九万九九九九まで既に使い切っているからである。総持ち時間が50億年とするなら、残りは五〇〇年だ。景気良くもう一桁、とてつもない幸運の数が一億個なら、残りは五〇年しかない。嘘みたいだが、そうなる。

 この話は、周りを見回してみて、同世代の人がほとんど死んでしまってもういないとなると、自分もそろそろかなあ、と考えるのによく似ている。結局のところ「我々がどのくらい珍しい存在であるか」が、そのまま私たちに残された時間になるのである。逆に人類のような存在が、発生に幸運なんて特に必要としない、ごくありふれた存在であるなら、残された寿命は実にたっぷりある、と期待していい。というわけで、まだ子孫に時間が残されているということを知るためにも、未来は果てしないと信じて今日を生き抜く糧にするためにも、いつかそう遠くない未来にひょっこり異星文明が発見されることを、願って止まない。

 それにしても、いや、ホンマの話、私たちって、そんなに変じゃないよな、な。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む