子供のころは、いつか私も空き缶をごろごろ結びつけたオープンカーに乗って、新婚旅行へと旅立つのだと思い込んでいた。ところが、成長の過程でいくつもの結婚式に出席してみると、そんなハデな行動を実際にとる人は誰もいなくて、少なくとも現在の日本では、あれはドラマの中だけのいささか誇張された風習だという結論にやがて少年大西は至るのだが、どのみち結婚とは恥ずかしいことだし、そもそも一生のうち何度もできる事ではないので、冗談でもひとつやってみたかったような気もする。まあ、ほんの数百メートルなら、あれはあれで良いものではないだろうか。そんなことないか。
そういうことで言うと、こちらはどうやら日本にもそういう風習があるが「ビールかけ」や「胴上げ」に参加する機会はあまりあるものではない。ようし今夜はビールかけでお祝いだ、とか、みんな集まれ胴上げだそれわっしょいわっしょい、と自然発生的に胴上げが始まってしまうなどということは、あらためて考えてみると確かに、めったにあることではない。まして胴上げの「胴上げされる側」になるというようなことは、漫然と生きていると一生に一度もないことのような気がする。
来し方をつらつらと思い出すに、客観的に見てビールかけをしていいくらい嬉しかったことというのは、せいぜい大学の入学試験に合格した時くらいのものではないかと思う。もちろんその当時はビールなんぞというニガい飲み物は別に好きでもなんでもなかったので、思い付いても絶対にやらなかったろうと思う。胴上げはどうかというと、入試の結果発表を直接大学に見に行けば、応援団だか何だかの人がどこからともなくやってきて無理やり胴上げを喰らわされる、との噂を確か耳にしたことがある。私は発表を郵便局が配達する電子郵便で見て済ましてしまったので、今もってこの噂、本当かどうかわからない。ウチの大学はジミな校風で有名なところなので、やはり噂は噂だった可能性が高い。
そういえば「胴上げを喰らう」と表現したが、まさにあれは「喰らう」という表現がふさわしい。周囲の人が自分を祝って空中高く放り投げる、という情景に誰もが一種の憧れを覚えるのは確かだが、実際に今やるとなると、いささかの恐怖を覚える人も多いのではないだろうか。空に一回、二回と舞い上がり、ふとその場の全員が次の一回を投げ忘れる、というようなことがもしやあったとすれば、喜びに顔を輝かせた当人のあずかり知らぬまま待っているのは固い地面との激突で、実際そうやって大怪我ないし亡くなった方というのが無視できない数いらっしゃるらしい。胴上げをするときには必ず回数を決めてから、特に頭のほうの担当の人は絶対に最後まで被胴上げ人の頭蓋骨に責任を持て、という警告を幾度となく聞いたことがある。
さて、先年、そうやって胴上げされているNというスポーツ選手を見ていて(うらやましいことにあとでビールかけもしていた)、全く関係のないある疑問を抱いた。いったい、重量というのは、保存するものだろうか。
突然に何を言っているのか、おかしくなったか大西、と思われるといけないので慌てて補足するが、こういうことである。ある人が空中にぽんと放り投げられたとき、胴上げ会場の床、たとえばグラウンドに、その人一人分の体重は感じられなくなるものだろうか。投げ上げられた瞬間、グラウンドの上の人々の体重は、被胴上げ人の体重分だけ少なくなるのではないか。
本当におかしなことを気にするもので、自分でも変だと思うのだが、長年鼻まで物理学的思考にどっぷり浸かって暮らしていると、こういう場合「良く分からないがきっと保存しているはずだ」という妙な確信が頭をもたげる。この場合「保存」というのは「半分残ったケーキを冷蔵庫に一時収納しておく」とか「パソコンで制作した書類をハードディスクに記録する」というやつではなく「いつでも最終的に帳じりが合う」という意味の「保存」である。要するに、投げ上げられた人の体重がゼロになるはずはなく、どうやってか収支が合うはずだと思ってしまうわけである。自然を騙せるはずがない、結局最終的には損も得もするはずがない、と。
この場合はたぶん、投げ上げる瞬間と受け止める瞬間に、胴上げする人々の足にぐっと余計に力がかかる、その分でもって、被胴上げ人が空中に浮いている分の重さがまかなわれているのだろうと思われる。体重計に乗って体を上下に揺らすと、針は左右に揺れるけれども、その「揺れ」の中心は常に自分の本来の体重であって、体重計の上で体をどんなにアクロバティックにひねろうとも、それで膨れ上がった自分の体重が軽くなることはない。きっとそれと同じことがここでも起こっているのだ。たとえば、被胴上げ人をうんと高く放り投げて、地面に体重がかからない時間をより長くしようと思うと、そのかわり投げ上げるとき受け止めるときに非常に大きな力が地面にかかるので、帳尻は合う、というわけである。ああ、よかった。
ところが、ここまでで納得しておけばいいのだが、ちょっと待てよ、と思うのである。例えばの話だ、胴上げされる人が「絶対安全被胴上げ用パラシュウト」というのを持っていたとする。胴上げされて、ぽんと空中に飛んだ瞬間、ユニホームの前がバリと開いてそこから巨大な落下傘がプウと膨らみ、それが体重を支えてふわふわと落ちてきたとする。そうすると、少なくとも「落ちてきた被胴上げ人を支える」という、今まで仕事のうしろ半分が必要ないことになる。放り上げるとき、受け止めるときのフンバリがあってこその帳尻だったはずなのに、少なくとも半分は工夫次第で必要ないということになるのだ。こんなことでいいものか。今、なんか重大な法則が破れたのじゃないだろうか。
が、残念ながらこうした、住み慣れた町の横丁でふと迷子になったときのような、めくるめく気分は長く続かない。この場合は空気が被胴上げ人を支え、その空気は地面を押しているわけなので収支は保たれているんだよ、と私の心の中の物理学者が優しく私の疑問を解こうとしはじめるからである。真相はたぶんそういうことで、東京ドーム全体を密閉して空気が漏れないようにしてしまえば、パラシュートを背負った長嶋監督の荷重は最終的にドームの床にかかってくるのだろう。
本当にそうなのか、たとえばパラシュートの代わりに気球ならどうなる、と、疑り深い私の一部がまだささやき続けているのではあるが、面倒になった私は、それよりも、万が一の胴上げ事故に備えたパラシュートの需要はないものでもあるまいうんこれはネタになる、とヘンな結論にたどり着いて、去ってゆくのだった。雑文なんて書いていると、こういうところがいけないと思う。