インターネットは埃だらけの物置

 なぜか最近「ワールドワイドウェブ」という言葉を聞かなくなった気がするが、ともかく、この世界に広がるウェブの上には今や「全てのものがある」と言ってもいいほどで、特に百科事典に載っていないたぐいの、たとえば「名前は思い出せないけど二十何年か前にやっていたテレビ番組でダレソレが出ていてこういうギャグがあったハズなんだが誰か番組名知らないか」というような疑問を、以前なら周囲の四、五人に尋ねてみて冷たい反応に泣く泣くあきらめるしかなかったものが、検索一発、なんとかそれらしい答えが出てくるようになっている。恐るべき進歩であって、いったいぜんたいネットというものがなかった時代、我々がどうやっていたのか思い出せないほどだ。…と、別に何ともしなくてもそんな番組の名前わかったところでどうにもならないのだが、進歩には違いない。

 言うまでもなく、これらは無数の名もない個人がその情熱をかけて素晴らしい情報サイトの数々を作り上げてくれているお陰であって、こういう人たちによってこそネットの「蓄積された情報源」としての側面が成り立っていることに、我々はもっと感謝を捧げるべきであると思う。この雑文のような、誰の役にも立たないページはむしろ、ネット上の有益な情報の検索を邪魔する利己的な行為だと言われても仕方がないのではないか。いや、そうに違いない。ただちに止めるべきだ。やめよう。もうやめた。今やめた。

 やめてしまうとそれはそれで面白いような気もするが、やはり続ける。そんなネット上の情報には、ボランティアベースであることに起因するある種の偏りがどうしても存在して、一つには載っている情報が、何というべきか、ある種の資質を持つ情報に限られるのはしかたがない。今、便宜上、仮にこの資質を「萌える」と表現することにするが、物ならばコレクションして楽しいような、テレビなら人々が(義務感からでなく)ビデオで残したがるような、本ならそのことについて知っている人同士で話をして一夜の座興にできるような、またどんな歪んだ形であっても欲(性欲、食欲など)にかかわるようなものは、探して見つかる可能性が高い。これらは「萌える」のであって、自分の中にあるそれらの思いをウェブ上に表現するに足る情報なのである。人々は、そのことについて書いていて楽しいのである(読んで楽しいかどうかにかかわりなく)。

 もちろん、一方で、さっぱり「萌えない」ために、いつまでたってもウェブに載りそうにない情報もある。ある年度の国語の教科書についてのウェブサイトは面白いものが作れそうで実際あるような気もするが、ある年度の数学の教科書は無味乾燥すぎて駄目である。売れないお笑い芸人についての情報はどこかしらに見つかると思うが、同じくらい売れない手品師についてのサイトはなさそうである(おおむね「笑い」は「萌える」要素に繋がりやすい)。人々は自分が持っている自動車、バイクについては頼まれなくとも書きたがるが、自転車については(高価なレーサー用のものなどをのぞき)あまり書かない。ただ、驚くべきは「どんな歪んだ形でも欲にかかわるものは」という言葉が時に我々の想像を絶してかなたに広がっていることであって、まれに「トイレットペーパーのホルダの善し悪し」などといった「そんなもののホームページをなぜ」という情報が載っていたりすることもあるわけだが、まずそういう奇怪なものに「萌える」人の絶対数が少ないことから、見つけてかならず見つかるとは限らないのである。

 話は変わる。幼いころ、私は保育園に通っていた。今思うとあれは公立ではなく私立の保育園で、だとすると私の全学歴で唯一の私立の教育施設ということになるが、なぜ私立だと思うのかというとその保育園の園長は僧であって、かなりな仏教教育がされていたからである。たとえば朝、登園してすぐ、園児は保育園の裏の「まんまんちゃん」の像に合掌し一礼することを教えられる。「まんまんちゃん」が本当はどういった名前を持つ肖像なのかわからないまま今に至ってしまったので、教育効果ということでどうであったかわからないが、いずれ仏像であったことは確かだ。保育園の裏はたぶんお寺で、保育園の建物にかぶさるように、あれは何の木なのか巨大な樹木がそびえ立っていて、幼児の私は、ふと見上げてはくらくらするその高さを味わっていた。

 その保育園が、新年、通ってくる園児に「お年玉」という名目でプレゼントを、毎年のように配っていた。お年玉はいわゆる「いろはがるた」で、私たち娯楽の少ない幼児はよくそのかるたで遊んだものである。今、思い出すまま、その幾つかを書き留めてみよう。

「あまちゃを あげましょ はなまつり」
 説明しよう。甘茶というのはほのかに甘いお茶のことである。どういう成分だったのか、その甘味がどこからきていたのか知らない。しかし、年に一度の「花祭り」の日には例の「まんまんちゃん」の像にこの甘茶をかけたりするのである。そういう風習があるのだ。

「ミルクをどうぞ スジャータさん」
 お釈迦様は、激しい修業の末(この修業では悟りに至れない、ということを知るのだが)、半死半生になっていた。そこに通りがかった村娘スジャーターが、ミルク粥を与え、釈迦は命をとりとめる。だからこのカルタは「『ミルクをどうぞ』とスジャーターは言った」と解釈すべきものである。コーヒーに入れるミルク(大阪ではコーヒーフレッシュという)の会社「スジャータ」はこの逸話から来ているそうである。

「くものいと きれてカンダタ まっさかさま」
 有名な「蜘蛛の糸」のエピソードで、生前悪業を重ねた盗賊カンダタは、地獄に落ち、責め苦を受ける。生前一度だけ命を救った蜘蛛が、それを哀れに思い、極楽から蜘蛛の糸を垂らし、カンダタはそれを登るのだが、後ろから同じように地獄に落ちた悪人たちが登ってくるのを見て、利己心から自分の足もとで糸を切ろうとする。と、自分の上で糸が切れ、カンダタはふたたび地獄に落ちるのだった。恐ろしいことである。

「ルンビニえんは はなざかり」
 ルンビニ園という名前の園がどこかにあって、そこにはいつも花が咲き乱れていることだなあ。

 と、面白いので(「萌える」ので)もっと挙げたいところなのだが、いくら頑張ってもこれ以上どうしても思い出せなかった。もちろん、こんな世の中である。このいろはがるたをもらった他の何千人(想像)という人の誰かがこれをホームページに載せていないはずはない、と検索をかけてみたのだが、残念ながら、ついに見つからなかったのである。というわけで、このページはこの仏教教育いろはがるたの、今のところ世界で唯一のホームページである、ということになるのだが……。

 たぶんこれも、またも無用な情報をウェブに付け加えてしまった、ということになるのだろう。申し訳ないです。ここでもうやめます。


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