私は祝えない

 理系というものを勘違いしている人がときどきいるのだが、私だって、いつもいつも「宇宙の果てがどうなっているか」とか「中性子数16が新しい中性子マジックナンバーとして発見されたことの意義」なんてことを話題にしているわけではなく、ヒトナミに世事世俗のことについて、せんない話をすることもある。「めざましテレビの『きょうのわんこ』は金曜日にもやって欲しい」とか「今やどんな役でも松嶋菜々子は桜子(※1)のように見える。とりわけ『百年の物語』の再放送はもはや平静には見られない」とかそういったことだが、とりあえず、民放の朝の放送で必ずある「スポーツ新聞の記事紹介」コーナーは、これはひどい手抜きであると主張する者の、私は一人であることを事のついでに申し述べておく次第である。

 さて、先日、父親といっしょに自動車に乗っていて、たまたまある事件の話になった。今年の成人式で、式の進行の邪魔をした新成人数人が告訴されたという話である。私は「告訴ぐらいしないと分からんのだろうから、あれで良かったんじゃないかなあ」などといったヌルい意見を述べてお茶を濁そうとしたのだが、父の怒りは私の想像を絶して深く激しかったのである。

「あんなもん、政治があかんねやがいっ」
 政治か。やっぱり政治がいかんのか。そこまで根の深い問題なのか。いや、そりゃそうかもしれないが。とにかく父は、かの一件を腹に据えかねているようであった。

 私にしてみると、私の年齢は「新成人を断絶を感じながら新種の人類のように見る立場」なのか「自分たちの一種として、一部の『ハネッカエリ』を苦笑しながら見る立場」なのか、微妙な所である。私自身の成人式にも、あまり感心しないふるまいをしている、かつてのクラスメート数人を見て暗澹たる気持ちになったことはあって、今回はその延長上なのだろうなあ、とは思うのだが。

 と、私がだいたいそういった感想を述べると、父は首を振って、続けた。
「成人を祝お、ちょな気がないからあなことなるんや」
 うーん、それは、成人式を自治体がやることなんかない、自分たちで祝いたければ祝え、ということですかお父様。ところが、父はこう言い放ったのである。
「ちゃう。成人の日をオカイな日にしてまうさかいや」
 ええっ。

 父の述べるところによればこうである。一昨年までは、成人の日は毎年一月一五日にあった。これは、国、自治体、新成人のだれもが「一月一五日」を一つの区切りとして新たに成人をむかえると認めていたものであり、それで何の問題もなかった。ところが、国が、朝令暮改朝三暮四朝霧高原でもって年によって移動するおかしなカレンダーにしてしまった。これでは「なぜこの日を成人の日として祝うのか」「なぜこの日を境に自分は大人として扱われるのか」という意義があらかた消えてしまう。なのだから、その式典をうやまう気持ちが新成人たちから消えるのは止むを得ない。連休を増やして内需拡大だかなんだか知らないが、どうせこんな寒い時期に誰もばかんすなどに出かけたりするものか。国がひいては政治がいかんのである。このままでは国が滅ぶ。と、ざっとこういう論理なのだった。

「えと、一つ質問があります」
「なんや」
「そもそも、どうして一月一五日が『成人の日』だったんでしょう。これにはどういういわれがあって」
「知らん」
 私は頭をかかえた。なにしろこれなのであった。

「それに、や」
 まだあるんスか。
「お年玉付年賀はがきの当籤番号の発表も、ヘンな日になってもたんや(※2)」
 それって、めっちゃささいな理由やないですか父上。
「抽籤は成人の日や思うから忘れへんのに」
 うーん。
「一月一五日にするて決まっとったハッタンカイの日もバラバラなってもた」
 そのハッタンカイて何ですのん。
「とんどの準備も平日にせなあかん」
 それはうちは今年はやってへんやないですか。
「ここまでが正月やという区切りがないんや」
 それはそですけど、別に一五日が休みである必要は。

 と、そこで母が口を挟んだ。
「うちの町の成人式は平穏やったらしけどな」
「えっ、それなら何の問題も」
 と答えた私に、
「ま、そやけどな」
 と父が、妙に遠い目をしながら言った。

 森首相。父に免じて、どうか成人式の日を一月一五日に戻して下さい。


※1 「やまとなでしこ」というドラマがあったのである。劇中で、松嶋菜々子扮する桜子は「結婚は、男の価値はお金で決まる」という信念を持ったスチュワーデスとして描かれている。「ゴーストスィーパー美神」の美神令子みたいな性格なのか、考えてみると。
※2 今年は、一月一四日であった。
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