神様お願い

 八百万、という単語、これは8,000,000のことではなく、日本語における「数がきわめて多い」ということを示す言葉だが、読みが「やおろず」ではなく「やおよろず」であることを、今回はじめて知った。人間、一生勉強であると思う。

 さて、日本は八百万の神様がいる国であり、あらゆるものに神が宿っているという信仰がある。それなりの旧い家である私の生家の場合も、正月にしめ飾りを吊るす場所の多さから、ふだん我々がいかに多くの「神」に囲まれて暮らしているかを改めて考えさせられる。商売をしている家であるから神棚自体が多いのだが、トイレ、井戸などにもしめ飾りを置くのは、そこに神様がおわすとされるからだろう。自家用車にしめ飾りを付けることは、うちではしなくなったが、今でも時折見かけることがあってほほ笑ましい。パソコンにも飾っている人は飾っているかもしれない。

 あらゆるものに神が宿っているからといって、それらの神の多くは、ただうやまい、祭るだけの神であって「神頼み」の言葉にあるような願い事をすることは、普通ない。商売の神様に「商売がうまく行きますように」と願い事をすることはあるのだが、厠の神様に「うまく流れますように」などとお願いをすることはないのだ。もっとも厠の神は、もしかして、歴史上ある時期、便秘など排便に伴う苦痛を軽減する霊験をつかさどっていたことがあって、それを私が知らないだけなのかもしれない。しかしまあ、とにかく普通はそんな願いをすることはない。

 そういえば、以前読んだある漫画の中に、神様には願い事をするのではなく「こういう大望を持っていますから見守って下さい」と、宣言を行うべきなのだ、という話が載っていて、いたく感心したものである。現在の科学教育を受けた者の端くれとして、神という存在が仮定的なものであって、そこになんらの現世利益があるものでないと厳しく断じたとしても、しかし自らの精神の在り処を誓う存在としての宗教は許されてしかるべきだと思う。

 とはいえ、日本における伝統的な人と神との関係がそういう淡いものであったとしても、人事を尽くしたある一点で、神に祈りたくなる気持ちはあるものだ。キリスト教文化圏にある人はここで全能なる唯一神に祈るのだろうが、八百万の神の存在を当たり前とする日本人はここで「ナニナニの神様お願いします」と祈るものではないかと思う。海の神様、漁に出て帰らないお父さんを帰して下さい、などという祈りは悲痛なものである。

 しかしこれが、より卑近な神様になるとどうか。「ロマンスの神様」という歌があって、ロマンスを司る神様にロマンスの到来を願うというものだが、いくら八百万の神の集団におおわれた国だとしても、ここまで小さな神様になると神様の存在がなんだかその辺りの宅急便のお兄さんと変わらないような気がしてくる。だいたい、ロマンスの神様はロマンスに仕えロマンスのみを追及する神様であって、後は野となれどうでもいいのではないだろうか。それとも、一夜のロマンスだけが望みなのか、広瀬香美。

 こういうのもある。どうもパソコンの調子が悪いとする。システムなのか、ネットワークのどこかなのか、送ったはずのメールが届いていなかったり、書きかけでフリーズして最初から書き直しになったりして困った。ああ、何とかこのメールが相手に届いて欲しい。しかし、現在のいちユーザーの力を、これはもはや越えたところであって、誰かにすがりたい。
「メールの神様メールを届けて」
 気持ちはわかる。だがこの願いを聞くと、どうも、神様がメールを受け取ってひょこひょこ相手のところまでメールを持ってゆく様子を想像してしまう。もはや神様はパシリである。

 あるいは、もう面倒なので状況は書かないが、
「ハガキの神様、懸賞に当たりますように」
 それは頼むところが違う気がする。
「合格の神様合格通知を下さい」
 こらこら、合格さえすればいいのか。不法取得はいかん。
「景気の神様景気をよくして」
 気持ちはわかるが、ちょっとそれは「景気の神様」には荷が重いのではないか。総理の神様とか財務省の神様に期待するほうがいいのではないか。
「料理の神様料理を作って」
 だから、神様には荷が重いというのに(しかし、料理の神様と呼ばれる人物はどこかにいそうな気もする)。
「お風呂の神様風呂を掃除して」
 神様は君のお母さんじゃありません。
「上司の神様許して下さい」
 何か違う。今までの例ともどこかが違う。
「雑文の神様、ネタを下さい」
 メタに走ればいいというものではない。

 これだけ「神様」を茶化したようなことを書いていると、さしもの無神論者の私もちょっと恐ろしくなってくるのは確かである。ここはひとまず謝罪の言葉を述べて、この文章を締めくくりたいと思う。

 神様の神様許して下さい。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む