チョウさんの死

 春秋時代の中国に、というとどのくらい昔だか実は知らないのだが、宋という国に狙公という人がいた。ソコウと読む。狙公の家は黄河を遡行したところにあった。産業は粗鋼であった。狙公の妻は糟糠の妻だった。ちなみに、最近倒産したあるデパートの名前がここから来ている。嘘だけど。狙公の狙というのは「ねらう」という字だが、別にスナイパーではない。実は、この場合は狙というのは猿のことである。猿が虎視眈々とテーブルの上の食べ物を狙っている様子からこの「狙」という文字に「ねらう」という意味が与えられたのだ。これはほんとうだ。要するに、狙公はミスター猿、猿回しなのだった。

 さて、狙公は狙公なので猿を飼っていた。商売道具としてたくさん飼っていたので、えさ代がかかってしかたがない。あるとき狙公は、その抜本的な構造改革と支出削減を狙って、猿達にこういう提案をした。
「これから、お前達に与えるトチの実は、朝三つ、暮れに四つとする」
 猿は狙公のこの提案に怒った。なにかここまでで重大な自然界の法則がひとつ破れたような気がするが、まあ気にしないでゆこう。とにかく猿は怒った。少ないというのである。

 もちろん、これまでのトチの実配給量がどのくらいだったかが分からないので、これがいかなるブルジョアジーの傲慢であったのかは明らかではない。もともと朝四つ暮れ四つならまだいいが、今まで朝はドンブリ一杯暮れはお茶わんに軽く一杯その代わりビールが一本付きます、というものだったかもしれず、さらにそれがヱビスであれば言うことはない。その配給を一日七個のトチの実に減らされたプロレタリアートの悲哀がわかったふりをして先に進んでよいものかと思うが、だいたいトチの実が何であるかもわからない私にはよくわからない世界であるからここは一番引き分けということにしよう。要点はこうだ。トチの実は減らされた。猿は怒った。

 猿に怒られて狙公は困った(どう困るかはわからないが、おそらくストライキを起こされるのだろう)。狙公は、譲歩案を猿側に提出した。
「すまん。では、朝に四つ、暮れに三つということにしよう」
 猿は喜んでストを解除した。狙公は株主にも従業員にもいい顔ができて大喜びだった。こうして春闘は終わった。

 さて、以上を簡約して「朝三暮四」というわけだが、一般にこれは、小手先の違いに騙されて同じことなのに気がつかないこと、というふうに使われる。溶けて流れりゃみな同じ、と同義語であるが、かなり守備範囲が狭くて実際には使いづらい故事成語ではある。現実には、悲しいかな「同じなのに気がつかないで喜んでしまう」ことよりも「悪くなっているのに気がつかないで許してしまう」ことのほうが多いように思うからだ。上の故事はその文脈でもあるわけだが、主眼はあくまでも朝三暮四よりも朝四暮三が嬉しい、というところにある。応用が難しいのに、たいてい誰でも知っているのは、もとになったこの話がなかなか面白いからだと思う。

 どちらでも同じとはいうものの、よく考えてみると「朝三暮四」が「朝四暮三」に変わるのは、この複雑に入り組んだ現代社会、なかなかばかにできないものである。そもそもすべての金融業は「朝三暮四」が我慢できない人に、朝貸して暮れ取り立てて「朝四暮三」にする、という職業なのだ。同じお金を、早く手に入れることは一つのパワーなのである。株式も定期預金もボーナスも千円のテレホンカードが105度数あるのも、みんなこの原理から来ているのだ。

 自然なインフレの結果、少しずつトチの実の価値が下落しているとする。朝の四つのトチの実が、暮れにはたとえば三・九個分の価値しかないとしよう(かなりなインフレ率であるが)。朝三暮四は朝四暮三に比べて損をするのだが、計算すると、その日の暮れ時点でトチの実四〇分の一個分、四〇日こういうことが続けば丸々一個、損をすることになる。少なくとも、消費者物価が上がり続ける世界では、朝四暮三がいい。

 そういうわけで今回は、朝三暮四、これでなかなか軽んじてはいけない故事成語であるというお話であった。そして、トチの実丸々一個が果たしてどのくらい嬉しいのかをないがしろにしたまま、この文章は終わる。


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