三百代言

 結婚した二人が、互いをどのように呼称するかという問題で悩む日が来ようとはちっとも思っていなかった私であるが、今そのことで、困惑することがある。

 もちろん、二人のときにお互いをどう呼ぼうがそれは勝手というものだが、外に向かって配偶者を呼ぶときにどう言えばいいのかについて悩んでいる。要するに電話に出て「いま妻は留守にしております」と言いたいときに、どういえば良いかである。何か気の利いた言い方で、かつ礼儀にも反しない言葉がないかと思っているのだが、よいものがない。

 こういう場合、信用していいと思う、かっちりしたルールが一つだけあって、それは「外に向かって身内のことを呼ぶときにはいっさい敬語を使ってはいけない」というものである。たとえば、オフィスに電話がかかってくる。取る。上司にかかってきた電話である。
「申し訳ございません、いま新屋は席を外しております」
 こう言わねばならない。新屋さんとか、ましてや「新屋部長」などと言ってはいけない。新屋某が私の上司であろうと会社で部長という地位を持っていようと組織の外部から見ている相手にしてみれば全く関係のないことであるという説明は、納得できる。特に組織に入りたてのときはこれはとても勇気がいることだが、ぐっとこらえて「新屋は」と呼び捨てないといけない。

 ただ、私が大学の研究室にいたころ、教授や助教授あてにかかってきた電話をとるときに「中村先生」と呼ばずに「中村はいま昼食に出ております」と言っていいものかどうか苦慮して、結局「先生」という言い方で押しきってしまったことがある。いち私企業が与えた組織内での地位とは異なり、大学の教授というのは大学が、間接的には国が定めたものである。英語でも「博士」と「教授」はミスターのかわりに使って「プロフェッサー・ナカムラ」と名前の一部のように使用したりする。教授は、大学の研究室にいる人だけにとっての教授ではなく、世間的に見ても教授たる人間であるという意識なのだろう。だから大学の先生に限っては、敬称を略さずに使っていいのではないか。

 とまあ、そのときはそのように自分を納得させたわけだが、今になって思うと「教授」はともかく「先生」はまずかったように思う。電話をかけてきた人は「中村教授」と話したいのであって、中村氏を私が「先生」と思っていようとどうしようと関係ないことだからだ。他の研究室(ゼミ)ではどうなのか、私のいた研究室では「中村教授」や「中村博士」といった言い方をしなかったので「先生」になってしまったのだが、選べるならば「教授」がよかったと思う。

 逆に、外部から企業内の一個人を呼ぶ場合に地位をつけて「渡部課長いらっしゃいますか」と言うのも、これは敬語表現としては問題ないのだろうが、違和感がある。テレビのニュースで「事件を起こしたのは暴力団補陀落組上田民男組長代理で」などと報道していることがあるが、これと同じ、ちぐはぐな感じがするのである。暴力団内部でどのような呼び方をしていようが関係ないじゃないか、と思ってしまうのだ。銀行で外回りの営業員の多くが「副支店長」だったり、私が「大西科学名誉研究員の大西です」と勝手に地位を作って勝手に名乗っているようなものだと言えば分かるだろうか。ただ「トラハタ時事新報社下条社長を特別背任容疑で逮捕しました」であれば特に問題があるとは思わないので、会社でも責任者としての地位だけは例外なのかもしれない。

 さて、話を元に戻して、そういう「外部に敬称を漏らさない」というプロトコルに従えば、私は妻のことを外部に向かってどのようなひどい呼び方をしてもいいことになる。妻を「愚妻」子供を「豚児」と謙譲して呼ぶように、たとえば「家内」であれば「家の中ばっかりにいるような旧時代的な女なのですよ」という謙譲表現になるわけである。男女差別的な意味合いを持っているとしても、謙譲表現で妻をおとしめるべき場面なのであるから、むしろなおさらよい。少なくとも従うべきルールがこれだけだとすれば、そうなる。

 ところで、このルールで考えると、妻が夫のことを「主人」「旦那」と呼ぶのは言語道断だということになるのだが、伝統的な表現ではそれが許されているのはどういうわけだろうと思う。こっちはあなたの主人だろうが上位存在であろうがどうでもよいのだ、と思うべきではないか。「良人」というのもある。身内を持ち上げてどうするのだ。

 というわけで、妻にはぜひ「宿六」と呼んでいただきたいと思う私なのだが、私が「素敵じゃないか宿六」と思った瞬間に、これは謙譲表現ではなくなるのだろうか。実にややこしくてならない。


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