青春の息吹

「オーケストラ楽器別人間学」という本がある。オーケストラの各パートの楽器と、それを演奏する奏者の人間としてのタイプとの間に何らかの関係があるのではないか、どうもそう思えてならない、という視点で、オーケストラに属する人々をユーモアをもって描いたエッセイである。作者は茂木大輔という方で、NHK交響楽団の首席オーボエ奏者とのこと。今まで音楽の演奏に全く縁がなかった人が読んで面白いかどうかはわからないのだが、幸いにも私は、中学校のたった三年間ではあるものの、ブラスバンド部に所属していたことがあって、楽しんで読むことができた。

 私が吹いていたのは「ホルン」という楽器である。丸い金管楽器で、管の出口が奏者の後ろに向いていて、そこに手を添えて楽器を支えるという変な姿勢をとる。この「オーケストラ楽器別人間学」によればタレントの松村邦洋は楽器の奏者でいうとホルン奏者だそうで、この本の表紙イラストでホルンを吹いているのも彼である。私も全男性を四つに分けると同じグループに入る人間であるから(八つでもそうかもしれない)、なるほどこの本の筆者の見立ては見事である。

 とはいうものの、私のことを「ホルン奏者」と言ってしまっては豪語大冒険というものであって、後にも先にも三年間、しかもノラリクラリと音を出していただけだった私は「ホルンなら吹けます」とは恥ずかしくて到底言えない。去年のある日、機会あってトランペットを吹かせてもらって、まだ音が出るということに相当びっくりしたという、そういうレベルの吹き手である。

 さて、何事もやってみないと分からないことはあるもので、ホルンを吹いていてもそういうことはたくさんある。ハーモニカやリコーダーと違って息を入れさえすれば音が出るものではないということ、同じ押さえ方で複数の音階の音が出ること、高い音ほど出すのが大変であることなどさまざまである。掃除やメンテナンスのための道具がいろいろとあるのも他人の演奏を見ているだけでは決してわからない。そんな、知らない人に見せても用途が想像できないであろう演奏グッズの中に、ひも付きの雑巾がある。奏者がみな雑巾のようなものを持っていて、自分の譜面台の高さ調整ねじのあたりに引っかけてあるのだが、いったいこれは何か。

 ホルンに限らず、金管楽器はみなそうだと思うのだが、吹いていると中に水が溜まる。溜まっても音にはあまり変化はない。少なくとも中学生の私には聞き取れなかったくらいの変化しかないのだが、放置すると管が詰まるほど溜まってしまうので、その前に捨てなければならない。その捨て場所として、特に舞台の上で合奏中だったりすると、のこのこ洗面所まで歩いていって捨てるというわけにもいかない。というわけで、水の捨て場所としての雑巾が必要なのだ(これが絞ると水が出るほど濡れるまでは、さすがに行かない)。

 楽器の中に水が溜まるというと、何というかかなり嫌な水が溜まっているところを想像してしまう。しかし、落ち着いて考えてみると、唾液も少しは含まれているだろうが、息の中に含まれる水蒸気が楽器の中で冷やされて凝結したものが、その大部を占めているはずだ、と当時の私は考えついた。

 吸い込んだ息は、肺で暖められると同時に水分をふくんで吐きだされる。くるくる曲げられた楽器はラジエーターのようなもので、息はそこを通るうちに冷え、含んでいた水蒸気を液体の水の形で置き去りにする。だとすれば、ホルンをぐるっと回すと必ず出てくるあの水は、蒸留水といっても過言では、いやそれは言いすぎだが、まあ思ったほど人間の分泌物ではない。冬の電車や自家用車で窓が曇る、あれと同じものだと思えばいいのかもしれない。

 計算してみよう。今、三六度に暖められた吐息が肺の中で十分な湿り気を与えられ、湿度90パーセントになっていたとする(蒸し風呂くらい)。このとき、空気中の水蒸気の量は1立方メートル当たりで35グラムほどある。これが室温の18度に冷却されたとすると飽和水蒸気量は1立米あたり15グラムほどに減るので、差し引き20グラムの水蒸気が水として現れることになる。

 阪神甲子園球場に阪神の応援にゆくと、七回の裏の攻撃の前に観客席から「ジェット風船」が飛ぶ。ここからも同じ原因による「水」が出てくることになるが、風船に詰まった空気を10から15リットルほどと見積もると、露になって出てくる水はゼロコンマ数ミリリットルといったところである。水をスポイトなどから滴らせる「一滴」というのが0.05ミリリットルほどだから、5滴くらいの水が出てきてもおかしくない。

 楽器に吹き込む息の量は、だいたいこの風船を一分かけて膨らます程度だと思う。一時間練習すると10ミリリットル。楽器を詰まらせるには十分な量である。そういうわけで、あの水はたまっているわけである、といってしまっていいだろう。

 それにしても、全国に十万人くらいはいるに違いない中学のブラスバンド部の少年少女たちは大部分「あれは全て唾液である」という認識で楽器を演奏しているのではないだろうか。そうじゃないんだそれは水なんだ。あんまり汚くはないんだ、と、一刻もはやく教えてあげたいと私は思ったものだった。そんな瑣末なことを考えながら木剣に(※)練習していたのは私だけだったのかもしれないが。


※真剣の反対語。ぼっけん。
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