オールト雲の彼方に

 あるSF小説から得た知識なので真偽のほどは定かではないが、第二次世界大戦中のドイツではオカルト思想がさかんで、そのうちの一つに「地球空洞説」というものがあったそうである。我々の住んでいる地球は実は内部が空洞、球殻形をしている、というものなのだが、普通考える「地底にも人が住んでいる」あるいは「我々が移住できる」といったものではなく(いやそっちはそっちであったらしいが)、
「我々が住んでいるこの大地は実は球殻の『内側』である」
という、これを逆転の発想と言わずして何をそう呼ぶべきか、というものであった。とその小説に書いてあった。

 この思想、少し考えるだけでいろいろとボロが出てきて、いかにナチスドイツでもこれを本気で信じていたとはちょっと考えにくいのだが、ともあれこのイメージにはかなりのセンス・オブ・ワンダーがある。無限の彼方までぎっしり土が詰まった宇宙に、ぽっかりと直径一万三千キロほどの空洞がまるく空いていて、我々はその中で生活している。空洞の面には地球儀を裏返しに貼り付けたように大陸や大洋が存在し、太陽や月やその他全ての天体はこの空洞の中を運動しているのだ。

 指摘するならその時代、宇宙から地球を見た人はまだ誰もいなかったわけで、地球がどっちに曲がっているか改めて疑義を呈されると、一瞬混乱してしまっても無理はないかもしれない。居酒屋かなにかでいい感じに酔っぱらったあとに、ふと真剣な顔で聞かされたりするとなおさらである。これは二一世紀に生きる我々にとってもそうで、よって立つこの大地が曲がっていることは知識として知っていても、現実に見る我が町の風景の延長上としては、なかなか明快にはイメージしにくいところがある。あまりに地球が大きいので、曲がりを認識しにくいのである。

 たとえば私は今、自分が生まれた土地から六〇〇キロあまり離れて生活をしているのだが、ああ、遥かなる故郷よ、と空を仰ぎ見るとそれは方向としてちょっと間違っている。当たり前の話なのだが、地球は丸いので(そして我々が住んでいるのは球の外側の面なので)、故郷の方向は地平線よりも「下」になる。計算してみると、地平線から五度あまりも下方向、まっすぐ伸ばした拳の幅の半分くらいも地面の中方向にあるということになるのだ。ああ、故郷の君よ、私と君を隔てるのは、時間と距離ばかりではない。厚さ六〇〇キロの莫大な土と、砂と、岩なのだよ。

 さて、地球の大きさはご存知のとおり一周四万キロということになるが、この大きさをちゃんと把握するには、ではどうすればいいだろうか。映画やドラマのラストシーンなどで、主人公達を映していたカメラがぐっと「引く」と、東京の街の遠景になり、東京湾まわりの地図になり、日本地図になり、地球になる、という演出がたまに見られる。主人公の顔から地球の全景まで、カメラはどれほど引けばいいのか、イメージできるだろうか。

 地球の大きさと人間の顔の大きさの比は、だいたい五千万対一ということになる。もちろん、この数字だけ示しても、さっぱりよくわからない。説明のためにたとえば人間の顔のほうを五千万とすると、一は五ナノメートルの長さになって、これは最小のウィルスよりも小さく、大きめの高分子(たとえばヘモグロビンのような蛋白質)クラスの大きさになる。つまり、地球ほどの大きさの人間の顔があれば、人間ほどの大きさのウィルスが、巨大なビルくらいの大きさの細胞をコチョコチョしている計算になる。一瞬何かが見えたような気もするが、実は我々はウィルスの大きさだって実感できるとは言えないので、結局これはわからないものでわからないものを説明する、ということにしかならないのかもしれない。

 これはやはり何段階かに分割して考えるのがいいかもしれない。人間がアリをじっと見る。やっと見えるくらいの大きさのアリである。このアリにとってちょうどアリのように見える謎の存在「アリアリ」というものがいたとする(実際にはバクテリアくらいの生き物が「アリアリ」に当たる)。その「アリアリ」が目を凝らしてやっと見える神秘の存在「アリアリアリ」を仮定すれば、ちょうどこれが地球にとっての人間の存在に等しい。どうだい。

 どうだい、と書いてしまったが、はしゃいでいるのは私だけで「なんだいこの子はアリアリアリって」と眉をひそめるあなたの顔が目に浮かぶようなので、ここはひとつ、小さいほうではなく、大きいほうに目を向けてみよう。地球と人間の顔の比はさっき書いたように五千万対一だから、地球のさらに五千万倍の大きさ、地球が一に対して五千万というとどういうことになるか。計算すると600テラメートルという距離になる。これは、冥王星よりは遠いが他の星系まではまだまだ全然及ばないという、そういう距離だ。太陽系の最外縁、冥王星軌道の外側には「オールト雲」という彗星の巣とでもいうべき地帯があるとされているが、そこまでも届かない。

 手を尽くしてもなかなかイメージしづらい地球の大きさを、遥かに遥かに越えて、宇宙は広がっている。もしも何かの間違いで「地球空洞説」が真実だったとしたら、そんな広遠さに思いを馳せることもできず、我々は顔の大きさのたった五千万倍程度の領域だけで生きてゆかねばならなかっただろう。そんな猫の額ほどの宇宙は、やっぱり物足りないかもしれない。


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