「デラックスバーガー」という話がある。急いでいて、仕方なく入ったハンバーガーショップで、「デラックスバーガー」というメニューを見つける。せめて高級なハンバーガーを食べたい、と思って注文したら出てきたのはただのハンバーガーで、ただ特別にデカいやつのことだった、という話である。
高い商品が高いわけ、物事の「高価になり方」には、つまるところ二通りの道がある。一つは高級品。質がよいことをもって、付加価値でもって高い。もう一つがお買い得品。量がやたらに多いことをもって、パワープレイでもって高い。ある種の宝石など、大きいことがそのまま高級を意味する分野もあるにはあるが、食べ物に関して言うと、畢竟、人間が一回の食事で食べられる量は決まっているのであって、ある一線を越えると量はサービスではなくなる。高級な料理には、とてもおいしいものがいろいろ、それぞれちょっとずつ入っているものである。特大ハンバーガーは例外的な思考の産物と言えそうだが、そういえば牛丼だって特盛りは量が多いから高い。このあたり、味噌味や冷やしにすると高くなるラーメンとの間に、目に見えない一線が引かれているようである。
一方、食べ物以外の品物で、たとえば衣服について考えると、これはもう食べ物以上に、質のみでもって語られる商品である。衣服において、無意味に大きかったり数がたくさんあることは、ほとんど「悪いこと」でしかなく、評価されるのは質、ひたすら質、質、質、質である。質質質、質質質、質質質質質質質である。安物の服は安物の服、変な服は変な服なのであって、衣服の数が質を補うことはほとんどない。同様のことは、家具や、パソコンや携帯電話などの情報機器についても言えて、これらの価格を決めるのは何と言っても質である。
ところが、パソコンや携帯電話のような情報機器より、何というかもう少しガテンとした、普段からちゃんと仕事をしている電化製品の場合は違う。たとえば冷蔵庫、あるいはクーラー。洗濯機も炊飯ジャーも、たいてい大きいものが素直に高い。電器メーカー各社は、新機能を研究して付加価値をつけ、質の勝負に持ってゆきたいとは思っているのだろうが、やることがそんなに複雑ではないので、既に機能的な面ではほとんど飽和してしまっている。成熟した製品では結局量的な評価だけが残る、ということなのかもしれない(最近、洗濯機に関してはちょっと違うようだが)。
そんな中で、掃除機である。これは上の例のうち「ガテン製品」に属するアイテムであるから、たくさん吸える、強く吸えるということが第一の評価基準であるはずだ。ところが、掃除機の吸う力をずっと見ていると、必ずしもそうではない気がする。まず、私がまだ小さな子供のころ、七〇年代に父が買った掃除機は、それは強い吸引力を持っていた。掃除中、誤って単一の乾電池を吸わせてしまうと、ゴトゴトいいながらたちまちパイプを通過して本体内に収容されてしまう。腕の皮膚に吸い付かせると、内出血して赤い点々ができる。そんなのはいいことでもなんでもないが、とにかくそういう掃除機だったのである。
ところが、八〇年代半ばになって買い替えた新しい掃除機は勝手が違った。てんで意気地無しの鶏野郎だった。腕を吸わせるとうんうん唸るだけでちっとも貼り付かず、ちょっと大きな電池はもう吸い上げる力がない(それでいいのだが)。おそらく、掃除機の先、じゅうたんなどに当たる部分に技術革新があって、モーターの力は弱くとも掃除の能力は変わらない、ということになっているのだろう。確かに掃除はできる。だが、心細いものだ。どうもこの時点で、掃除機の評価がモーターの力ではなく、何か別の軸にそって行われるようになったらしい。
ずっと最近になって、あの掃除機七〇と似た吸引力を持つ掃除機に出会ったのだが、それが何とも謎めいた掃除機だった。実は、ある日、母から送られてきた宅急便の荷物を開けてみたら、掃除機がごろんと一台入っていたのである。どうしてそんなものを送ってくるのか、電話をかけて聞いてみたら、こういうことだった。
・新装開店した家電量販店で買った。
・展示品処分だったので、説明書も箱もない。最初から本体だけだった。
・メーカーもよくわからない。
・それどころか、怪しいガムテープの跡みたいなものがついている。
・価格は千円だった。
・買ったものの、実家では必要ない。既にあるからだ。
・というわけで、息子のことを思い出し、送ってみた。
「送ってみた」はないと思うのだが、そう言われたのでしょうがない。だったら買わなきゃいいのに、とぶつぶつ言いながら使ってみると、これが凄かった。ものすごい吸引力なのだった。失われた三〇年を飛び越して、過去からやってきたもののごとく、フローリングの床を剥がさんばかりの力でゴミを吸いまくるグレートエイプな掃除機なのであった。
ほとんどフリーマーケットに近い状態の商品とはいえ、千円になるくらいであるからもともと安かったには違いない。おそらく、今や高級掃除機はソフトにゴミだけを吸い上げ、廉価版の掃除機は力づくでゴミ(と他のいろんなもの)を吸い込んでいるのではないか。この掃除機、私は懐かしかったが、油断すると床にぺたと貼り付いて引きはがすのに力がいるのが困りものではあった。
実力をもってなる家電製品もいつの間にかファッションの陰が忍び寄る、というケースに最近もう一つ出会った。扇風機だ。梅雨に洗濯物を乾かすには扇風機だ、と(まさに)「ためしてガッテン」で言っていたので、いそいそと買いに走ったのだが、売り場に行くと、下は千円程度から、上は一万円近くまで、実にさまざまな扇風機がある。同じ製品とは思えないほど価格幅が大きいのだが、どれも羽根の大きさなどは同じで、外見上、差はせいぜい操作ボタンやタイマーが機械式か電子式か程度である。
こういう場合、役に立つ「駅弁の法則」というものがあって、安いほうから数えて二番目を買うとよい、とされる。何が良いか、どうして良いかはよくわからないが、とにかく決断の役には立つ。そういうわけで、私が買ったのは1,600円の、わけのわからないメーカー製の扇風機だった。
そしてこれが、これまでの話の流れでご想像の通り、えらいパワーなのだった。「弱」でも、普通の扇風機の「強」くらいの風がある。「強」は「烈風」と評したいほどの強さである。当然ながら「微風」や「おやすみさわやか風」などという芸はないので、寝るときにはうまく体に風が当たらないようにしないと健康によろしくない。あと、作動音がうるさくて、タイマーが切れて止まると、ああ、この家はこんなに静かだったのか、と思う。そこがまず、ナショナル製8,500円とアビテラックス社製1,600円の差だったのだろう。
総括すると、どうも廉価な家電製品では、多機能のかわりにパワー、質のかわりに量で補いをつけようとしているように見える。廉価版、非高級ということがパワーの欠如ではなく、手加減を知らなさや手数の多さになって現れるところが面白い。そういうことを考えているとついこのサイトの現状に思い至り、今日も扇風機の肩を叩いて涙を流す私なのだった。扇風機の風が私の涙を厳しく乾かしてゆく。