開かない扉

 あなたは、急いでいる。予定の時間にもう五分も遅れて、やっと目的地のオフィスビルに到着したのだ。既に相手方には断りの電話をいれてはあるのだが、だからといっていくらでも遅れてよいわけはない。駅から走り通したため、すっかり切れた息に日ごろの生活習慣についての何事かを決意しつつ、クーラーの効いたロビーを最後の力で走り抜ける。エレベーターホールに着いてみれば、目的階へ向かうエレベーターの扉が、今まさに閉まろうとしているところである。
「はっ、すいません、はっはっ、まってくださいっ」
 そう叫ぶように言ったあなたの声に、エレベーターの中のスーツ姿の異性が気づく。その人は軽く手を振り、操作ボタンに手を伸ばしながら、あなたに向かって微笑みかける。あなたが苦笑いをしながら、やっと少しペースを落とし、そして、エレベーターに向けての最後の数歩を消化せんとしたその瞬間。
「ぷし」
と、ドアが閉まる。エレベーターの階数表示が音もなくカウントアップを開始する前で、あなたは、へたり込む。

 しかしこれは、あなたがいかにも汗臭そうで、どうにもご一緒したくなかったからでは(たぶん)ない。おそらく、その異性がそそっかしいがために、エレベーターの操作ボタン「開」と「閉」を押し間違えたのである。数回前、ここでちょっと触れたことの繰り返しになるのだが、確かにこの二つのボタン、非常に混同しやすく、どうかすると押し間違ってしまう。

 前も書いたように、この根本原因は「開と閉の字が似ている」ということだとは思う。しかし、だからといって、たとえばボタンに絵が書いてあればそれで解決かというとそうでもなく、たとえば「←→」「→←」とあると、いかにもややこしい。落ち着いて見直せば、左のものが「開」だとわかるのだが、二つ並んでいると「矢印があっちやこっちに向いているっス」と雑然とした印象を受けやすいのだ。ボタンの文字をひらがなに開いて「ひらく」「とじる」か英語で「open」「close」であればやや間違いにくくなるかと思うが、問題の根本的な解決にはなっていない。だいたいこういうボタンで、何と書いてあるか読まねば操作できないというのは、そこに反省すべき点がまだある、ということなのである。

 セオリーとしては、こういうお互いに似た、間違いやすいスイッチを区別するために、とるべきデザイン法はいくつかある。その一つは、そもそも間違えて押せないようにすることである。たとえば、カセットを差し込むタイプの家庭用ゲーム機なのだが、電源スイッチを入れた状態ではカセットを抜き差しできないものがあった。スイッチのレバーが機械的にストッパーに直結していて、どんなにぼんやりしていても(小さい子供が使っていても)「ON」の位置ではカセットが引っ掛かって抜けなくなるのだ。思えば任天堂の初代ファミコンはその点いかにも鷹揚なデザインだったが、この工夫ははっきり正しい。つまり、エレベーターにしても、この伝で「開」ボタンが押せるのは「開」が機能する場合だけ、「閉」ボタンを押してはいけないときにはそもそも押せなくなっている。こういうことにすればいいのである。

 しかし、エレベーターのボタンに関して言うと、お察しの通り、これはうまくいかない。エレベーターの場合「開」も「閉」も、ドアが同じ状態の時に使うボタンだからだ。つまりエレベーターの扉が開いており、その扉をどうしたいのか(いましばらく開いたままにするか、慌てて閉めるか)を指示するボタンなので、たとえば扉にボタンをつけて「ドアが開いた時には押せないボタン」を作ったところで、使い道がないのである。

 ではどうすればいいだろう。ボタンに書いた文字や絵には頼りたくない。ボタンの配置や色(たとえば右の青いボタンは必ず「開く」など)をスタンダードとして覚えてもらうのは大げさだしちょっと遅すぎる。どちらのボタンも似たような機能を果たす似たようなボタンで、しかし、一目見てすぐに区別できなければならない。
 というわけで、この数日間、いろいろ考えてみたら、あるいはこうすればいいのではないか、というボタン形状を思い付いた。一通り考えたかぎりでは目立った欠点はないようなので、ここで発表してしまう。絵を入れてしまって申し訳ないが、こういうものである。

(画像;断面形状が山形になった「閉じる」ボタンと、真ん中がへこんだ形の「開く」ボタン)

 左が「開」、右が「閉」ボタンである。何が言いたいかわかるだろうか。こういう、へこんだボタンとでっぱったボタンを、それぞれ開閉に使おうというのだ。開くためのボタンは、閉まりかかった扉を支えるように、へこみの内側に触れて動作させる。閉じるほうのボタンは、ふくらんだ部分を両側からつまむ。要するに、開くとき閉じるときに、人間はどうするかという動作情報を、形状に持たせているのである。「閉める」という行動と、ボタンを「つまむ」という動作が、同じ方向だというのがミソである。

「ボタンなのだから押せるべきだ」という意見はもっともなので、押せるようになっていてもいいが、全体を金属で作って、人間が触れたことを電位ないし電気容量の変化で感知するようにしておけば万能かもしれない。難点を言えば、こういうトガっているボタンを採用すると、エレベーター内で壁にもたれ掛かったときに危険なので、角を丸めるか、ボタンの両側にガードを設けなければならないかもしれない。ともあれ、自画自賛になるが、さしてコストが増えるわけでもなくよいアイデアだと思うので、エレベーター製造各社には、ぜひ採用していただきたいと思うのである(ただし、既に同じ案で特許などが取られていなければではあるが。調べてないのだ)。

 もし、世の中がそういうことになれば、ボタンを押し間違うことはまずなくなるだろう。あなたは、あの異性はやはりあなたとの同席を嫌がったのだろうか、なにも目の前でわざと扉を閉めなくとも、と嘆くことになる。しかし、そういえば、こんな可能性もあるのではないか。こんな凝ったボタンにもかかわらず思わず押し間違えるほどに、あの人にとってあなたが魅力的であったのだ。そうかそうだと、あなたは一応ほっとする。そして、にこりといい顔をしたあなたの腕では腕時計が、約束の時刻の十分後を静かに刻み続けるのだった。


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