私が今住んでいるアパートの裏手に、広い庭付きの一軒家がある。家の門構えや、周辺の建物の配置から受ける印象では、どうも一種の地主であるらしい。そんなことがどうして見ただけでわかるのか、と疑問に思われてしまうかもしれないのだが、塀の内側に数軒の別の家を内包していたり、境界なしに隣の駐車場やマンションに接続していたりする中の、唯一の庭付き一戸建てなので、そうなんじゃないかな〜と思うのである。
アパート住まいのこととて、近所と言えどもつきあいはないのだが、見るともなしに見たところ、初老から老境にさしかかろうとする頃か、そのくらいの夫婦が住んでいて、今や残った畑の面倒を見るほかすることもない、といった風情で、日々閑々と暮らしているようだ。人間、かくありたいものである。
さて、七月のある暑い朝のこと。水音に誘われて覗いてみたら、この庭で、スプリンクラーが水をまいていた。公園や植物園の広い庭などで、水流の力でぱしぱしぱしぱしと少しずつ回転しながら周囲に水をまくという、そういう器械を見かけることがあるが、それである。庭にその装置が置かれていて、水音はそこからしていたのだった。テニスコートが一面取れるほどの庭に、ひとすじの水線が日差しを反射してゆっくりと旋回を続けている。涼しげであるし、何か非日常の豊かな光景のように思えて、しばし見入ってしまった。
ところが、それから何日か経って、おや、と思った。今日もまた今日も、しぱしぱしぱと水まきマシンが回っている。確かめてみれば次の日も、その次の日も、覗いてみると必ず水まき器が庭に出て、植木を潤しているのだった。私は徐々に不安になってきた。何しろ世間では「水不足」の危惧が声高にささやかれている猛暑なのである。今年の暑さ厳しいことといったらもう、孟母三遷毛管吸水猛虎夏バテなのである。なんだかわからないが、こんなことでいいと思っているのか。
考えてみれば、そもそも、水やりを装置任せにしているというのが良いことではない。なにしろそこら中に水をばらまくシステムなので、芝生ならともかく、庭に点在する植木に使うにはあまりに効率が悪いのだ。投げ掛けられた水のかなりの部分が、むき出しの大地にただ吸われて消えてしまう。自分で水をやる労力から解放されるせいで、そのあたりの認識がおろそかになっているのではないかという気もする。
なにしろ見ていていわく言いがたい焦燥感があり、水を大切にしろ、とか、自分でホースを握れ、と声をかけたくなったのだが、私も今年三十である。ご近所と喧嘩をしてもしょうがない。相手が地主さんとなればなおさらである。もう少し取水制限が厳しくなったらまた何か陰湿な手だてを考えよう、と私は陰にこもった結論を出して、問題を先送りにすることにした。
と、以上のような文章をリアルタイムで読んで下さっているあなたには、この話の落とし所は自明だろう。後になって読み返すときのために説明をしておくと、そう思っていたら雨が降ったのだった。七月までの猛虎夏バテはどこへやら、八月は総じて涼しい夏になり、ナニまだもうヒトヤマ、と空を睨んでいたら、こともあろうに台風が来て去っていって、どこへやら水不足はすっかり解消してしまった。 夏はゆく。ダメ虎を残して。いや、タイガースはどうでもいいのだが、何とも拍子抜けなのである。
では、思うのだが、この水をまいていた親父さんは結局のところ、正しかったのだろうか。いや、深刻な水不足であろうとそうでなかろうと、節約できるものはすればいいに決まっているのだが、ありもしない水不足におびえて庭木を枯らしてしまうのは愚かなことにも思える。何も考えずただ水をやっているだけだ、という可能性も捨てきれないが、ともかく「水」とだけ書いた紙をポストに入れたりしなくて本当によかったと思う。陰険な警告方法を考えた私を許して欲しいのである。
この一件で思い出したのだが、いま、地球全体の気候が、さまざまな人間の活動によって温暖化に向かっていると言われている。特に二酸化炭素がその主な原因の一つであるとされていて、世界的に温暖化を防ぐべく、国際的な排出制限を目指して話し合いが続けられているのだが、暑い夏が過ぎ去ってしまったから言うのではないが、そんなに大騒ぎするほどの問題かなあ、といつも思ってしまう。ちょっとくらい温暖化してもいいじゃないか、というのではない。二酸化炭素の排出を押さえる以外に、大気中の二酸化炭素を吸収固定するほうでうんと頑張る、ということはできないのだろうか。
何と言っても、この場合テキは単なる二酸化炭素だ。謎の病原菌でも、分解しづらい毒ガスでもない。石灰水に吹き込むと濁るあのニサンカタンソに過ぎないのである。水不足の本質もそういえばこういうことなのだが、全て「工業的になんとかするには非常に量が多くてコスト的に引きあわない」というあたりが問題なのである。コストこそ科学の進歩が解決してきた類の課題であり、どうにもならない感触はない。
もちろん、押さえられるなら二酸化炭素の排出量は押さえたほうがよい。省エネにもなるし、緑化は都市のヒートアイランド化にも効果があるかもしれない。しかし、もしかして数年経って画期的な空中二酸化炭素固定法が開発されたら、善かれ悪しかれ、あの騒ぎは何だったんだろう、ということにはならないか。そして、その時に我々がアメリカを見る目は、私が今裏の親父を見ている感覚に、非常に近いんじゃないかな〜、と思うのだ。
以上で話は終わりなのだが、ここまで書いて読み返してみると、あまりにもデキすぎていて前半部は私がデッチあげた作り話のように見えることに気が付いた。信じて欲しいのだが、これは、夢のように暑かった今年の夏に、ほんとうにあった話である。見たまえ、台風一過、夕日もあんなに赤い。