圧縮原理

 自分のページにメールアドレスを掲げていると、いろいろと宣伝のメール、スパムメールがやってくるのは、これはもうやむを得ない。といって、何らかのメールアドレスを書いておかなければ、いつも楽しく読んでいます、とか、リンクさせていただきました、とか、好きです結婚して下さい、とか、そういう嬉しいメールも来なくなってしまうのでそれは困る。そして、そういうわけで書いてある私のアドレスも、この世のどこかに存在するメールアドレス収集ロボットは倦まず疲れず差別もなく、公平にアドレスを収集してゆくのだ。

 つまるところ、三年もやっていると、そういうジャンクメールにはほとんど慣れてしまう。「アドレスの宛先(to)のところに自分のメールアドレスが入ってなければ、ゴミ箱に直行」というフィルタを使えば、ほとんど考える手間もなく削除できるので、私も普段はそれほど気にしていない。ところがこんな私のノホホンインターネットライフが、この数日間ですっかり違ってしまった。「Returned mail user unknown」というようなエラーメールが、世界中あちこちのメールサーバから頻々とやって来るようになってしまったのである。

 メール内容をよく確かめてみると、返ってきているのは「返却先メールアドレス(Return-Path)」が私のメールアドレスになっているものの、どこかの業者が出した、うさんくさいお金儲けサイトへの案内メールだった。どうも、ヘッダだけ偽造して、メール自体は他のサーバを使って送られているらしい。

 スパムメールの送り主としては、あるユーザー登録ページに顧客を誘導できればそれでよいので、メールへの直接の反応はノーサンキューということだろう。そりゃ自分のところにいちいち「このメールアドレスはありません」というメールがやってきたら面倒だし、顧客からの反響よりはスパムへの抗議のほうが圧倒的に多いのだろうから、自分の本当のメールアドレスを書く法はない。しかし、だからといって無関係なメールアドレスをそこに書いておくというのはちょっとひどい。自己中心的かもしれないが、せめてデタラメを書いておいて欲しいと思うのである。

 このエラーメールは、toのところに当然私のメールアドレスが入っているわけで、いつものスパムフィルタでは除去できない。題名も、全部が全部「Returned mail user unknown」かというと、これがプロバイダによりメールサーバの種類によってそれぞれ違っている。予想に反して「こんなメール送りやがってこのスパム野郎」という人間からの返信は一通もなかったのだが、必要なメールまで消してしまってはまずいので、わずかとはいえ、神経を使う作業である。こういうメールが、二日間で八〇通ほどもあったのだからたまらない。

 さて、これを書いている今もエラーメールはしきりにやってきていて、あまり笑い事ではないのだが、気が付いたことがある。ほとんどのメールサーバは、自分のところの複数のアドレスに送られてきたメールの配達先名が実在しないと、エラーを一つのメールにまとめて送る。たとえば「CC」の所に十五個メールアドレスが書いてあって、うち四個が実在しないものだと、四通のエラーが返ってくるのではなくて、一通に「これもこれもあれもこれも宛先が存在しないです」と書かれたメールを一通、返すだけにする。その一方で、こちらの方が直感的だが、そうではなく、四通なら四通、律義にメールを送り返してしまうサーバも存在するらしい。

 後者の場合、さぞかし面倒になることだろう、と思うわけだが、実際にはさほどでもない。返ってきた四通のメールは、どれも送り元も題名も同じなので、まとめて処理できるからだ。複数メールを選択してからゴミ箱に捨てる、という手間は必要だが、精神的は負担は一通の場合と変わらない。そして、本件において何が辛いといってこの、間違って必要なメールを捨ててやしないかという精神的負担が辛いので、複数のエラーメールを送り返してくるサーバは、少なくとも私にとって、それほどの悩みの種とはなっていないのだ。

 つくづく考えてみると、このへんの事情は主観時間の伸縮、という話によく似ている。人間にとって、時間の流れは一様ではない。人を待ったりして手持ちぶさたな時間は長く、楽しい時間はあっという間に過ぎるように思うものである。たとえば、デートの相手が十分遅れてくるとそれはもう一時間くらいに感じ、門限があるから七時にお別れと決まっていると、それまでの二時間はどう考えても一時間くらいで過ぎ去ってしまうように思える。しかし、その晩、一人になって思い出してみるとどうだろう。あんなに長かった待ち時間はほとんど覚えていないほど一瞬のことで、逆にあれこれと楽しかったデート中の記憶は密度高く、いつまでも覚えているものだ、と、こういう話である。

 単調な時間、脳に新しいことがなにも入ってこない時間は、苦痛だし、その時は長く感じてしまうが、記憶に残るようなことがなにも無いわけで、後から考えるとさほど辛かった記憶にならない。当たり前の話、脳になにもインプットされていないのだから、思い出しようがないというわけである。一方、楽しかったことは後々までよく思い出しては眺める記憶になる。面白いもので、そうすると記憶というのはどんどん、細部まではっきりくっきり、いつまでも残る。一日が普通の一年ほどもの記憶量を担っているということになりうるのだ。

 よく思うのだが、釣りにしても、マラソンにしても、苦痛なほどの「経験値上げ」を強いられるロールプレイングゲームにしても、実はこういうメカニズムが働くから、人は「またやってみよう」という気になるのかもしれない。これらは、長く苦痛な待ち時間と、短い栄光の時間からなっていて、普通に考えたら、もう一回やってみようと思うようなものではない。ただ、釣れるまでの時間、走っている時間、無駄な戦闘で「経験値上げ」をしている時間は、大体において単調で、頭を使っているわけではないので、後から思い出すと記憶に残らないのではないかと思う。大物を釣り上げる興奮や決められた距離を走り抜いた満足感、新しいイベントに遭遇した記憶のほうが遥かに記憶に残るというわけである。

 だとすれば、これは一種、記憶のメカニズムを利用してうまくだまされているような状態ではないかと思うが、しかしまあ、本人が楽しんでやっているのだからそれでいいのかもしれない。願わくば、仕事も単調で頭を使わない、というものであると、後から人生を思い返したときに「楽しかった」という記憶になるのではないかと思うのだが、物理的な拘束時間が長いものだと、なんだか人生があっというまに済んでしまうような気もする。

 ともあれ、このような「Returned mail」攻撃ははじめてだったので、ちょっと身構えてしまい、最初は本当に苦痛に感じてしまったが、これが一段落し、不快なメールをまとめて削除するという作業になってくると、確かに面倒ではあるものの、全体として単調で、思い返すだに辛いものではない。これから先これが続いてゆくとしても、あなたから戴く、貴方の書く猫が大好きです、とか、貴方の描くワニが好きです、とか、貴方と違って虫が好きです、とか、そういうメールがやってくるならば、そっちのほうが記憶に残ることになって、全体として、サイト運営は楽しかった、という感想になるのかもしれない。

 それはもう、感想のメールがいかに少なくとも、たまにでもあれば、そう感じてしまうのである。考えてみれば、呑気なインターネットライフだとは思う。


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