生まれも育ちも

 葉加瀬太郎さん、というバイオリニストの方がおられて、はかせたろう、と読むのだが、この「葉加瀬」という名前による利害得失あれこれ考えると、やっぱり何というか難しい名前だと思う。「ドクター某」の訳語として翻訳小説に出てくる以外には、「大西博士」といった呼びかけは、少なくとも私の経験の範囲内ではあまりしないものだが、それでも、まず耳から入った場合「はかせ」という音を持つ苗字は、ややこしいには違いない。

 葉加瀬さんの場合苗字だから個人の努力ではどうしようもないが、我が子に付ける名前の場合、社会に出てからのハンディキャップに少しでもならないようにといろいろ考えるもので、本屋のしかるべきコーナーに行けば「名づけ辞典」のたぐいが常に書棚からあふれそうになっている。占いの姓名判断も、もしかしたら幸運の画数という「縛り」を設けることで、親に決断をしやすくさせるという点で便利な道具なのではないかと思ったりもする。

 とはいうものの、よく考えてみれば、名前が少しくらい変なものだろうとどうだろうと、世に出る人は出るのであって、出ない人は出ないのである。結局のところ世の中は実力であり、いったん有名になって人々の口にのぼるようになると、かなり突飛な名前でもある程度のフォロワーが出るし、そうでなくとも慣れてしまって大して気にならなくなるものである。私も「ジャッキー」などという突飛な名乗りにすっかり慣れた。今や友人の子供にまでジャッキー呼ばわりをされているほどである。そんなに悩むほどのことでもないのかもしれない。

 さて、そういう観点で見た場合、名前のハンディを負ったモノとして思い浮かぶのは「尿素」という物質である。尿素。ああ尿素。尿素。とても辛い名前である。そもそも「ニョウソ」という音の響きもいいものではなくて、やっぱり「にょ」のあたりがダメさ加減を倍増しているのではないかと思うにょだが、漢字のインパクトはそれを上回る。なんとも尿なのである。

 尿素は化学物質の一種で、窒素化合物である。化学式は、どうでもいいが、CO(NH2)2。実はこの「化合物である」というのはかなり珍しいことで、他に「なんとか素」という名前が付いている物質は、酸素や沃素、珪素のようにほとんどが一種類の原子からなっている、いわゆる「元素」である。尿素のように二種類以上の元素の化合物で「素」という名前のつけられた化学物質は、ほかに「酵素」を思い付いたものの、どうもそれ以上はない。

 酵素のほうは、生物が作り出す複雑な高分子の一種だが、あるカテゴリの高分子の総称または機能の名前といってもいいものなので、尿素とはちょっと事情が違う。無用な混乱をもたらさないよう、化学物質の命名基準は意外にしっかりしているのだが、そういう原則に従った名前よりも「尿素」で人口に膾炙してしまっているのは、やはり「尿」の重みが他の全ての問題をかき消してしまっているからではないか。とにかく理由はどうあれ、尿素は元素でもないのに、素なのである。

 尿素がどうして尿素というかというと、やはり尿に含まれているからであろう。実際尿素は、蛋白質に含まれている窒素があれこれと変化して、その最後にたどり着く物質である。アンモニアから作られるがアンモニアではない。体にとって害が多いアンモニアを、肝臓がせっせと尿素に変換して、体外に排出するという、そういうものである。アンモニアと炭酸から尿素を作るときにはエネルギーが必要なので(吸熱反応なので)老廃物とは言いきれない、ちょっとした体内生成物と言ってもいいかもしれない。

 また尿素は、実のところさまざまに工業的に合成もされ、利用されている物質でもある。「尿素樹脂」という無色の樹脂を作って、染色性がいいことから塗料として使われたり、接着剤として使われたりする。さらに、医薬品としての用途もある。

 さあ、しかしこの医薬品としての利用が困ったものである。尿素の薬効は塗り薬としてカサカサお肌に効く、ということのようだが、ではここに、ケバだったカカトを奇麗に治す薬があったとして、これに「尿素配合」と書いたところで、ちっとも効きそうに思えないのだ。これはもう、何だかとても、悪いけど思えない。大阪弁ならすんまへんけど思えまへんだ。むしろ「廃物利用で作ったな」という気がしてしまうし、自分が日々作りだしている物質なので、有り難みもあまりない。ぶっちゃけた話自分のアレをナニすれば治るのかというとそうではないのだろうが、おお、アスコルパム酸メルチナゾールだなんだか凄いぞ、などと思えないのは確かである。

 物理化学に関連する名称の類で、おおむね短い名前のものは最初の方に見つかった物質である。たとえばサンソとプロトアクチニウムのどちらが偉そうかというと、サンソのほうがずいぶん先輩で、偉いかどうかはわからないが重要な物質とは言うことができる。そう考えると「尿素」はその名前だけを見ても歴史の初めの方に見つかった重要な物質であると言うことができると思うのだが、名前が災いしてあまり世に出ていないといえばそうかもしれない。私がこの前見かけた塗り薬のコマーシャルでも「尿素のほか『ビタミンE』も配合っ」とソエもの扱いだったのだが、やっぱりビタミンよりは尿素の方が効いていると思うのである。こんな世の中に絶望したりせず、したたかに生きていって欲しいと願わざるを得ない。

 ところで、そういう観点で見ると「臭素」という元素があるのだが、果たして臭素の人生に幸は訪れるだろうか。化学の世界はかように波乱に満ちているのである。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む