長い眠り

 眠りと覚醒の境界がいずれにあるのか、我々は普段、はっきりと分かっているつもりで、しかし寝苦しくひたすら長い夜、あるいは目覚めがかんばしくなく、スヌーズ機構で鳴ったり止まったりする目覚ましに揺り起こされながら水面ではねる石のようにこの境界に立って両方を見つめている朝、その区切りが実はあいまいな物だと知って困惑することがある。「金縛り現象」や、恐ろしくリアルな夢を見て、宇宙人や幽霊に会ったと錯覚するのはこんな時だ。

 これは人間によらない。犬や猫は、気ままに眠りそして起きる生活をしているせいか、このあたりの境界があやふやな生き物なのかもしれない。特に仔犬子猫にこれは顕著であり、彼ら彼女らが起きて、ばたばたと部屋中を遊び回っているそんなときでも、ふと捕まえて、その目に手を当てて三十秒ほど待ってみる。そうするとどうだろう。手を放したとき、彼らはぱたりと眠りに落ちているのである。暗くなったから夜になった、と思うのだろうか。それとも、手を目の前に持ってこられたので反射的に目をつぶって、それがしばらく続いたので「手が邪魔だから目が開けられない」ということを忘れ、「眠るために目をつぶっているのだ」と思い込んで眠り込んでしまうのだろうか。わからないが本当にそうなる。人間の子の場合はどうなのか、いつか試してみようと思う。

 さて、私は研修に来ていた。四泊五日というスケジュールで、この某県H市、小高い丘の上にある研修施設に泊まり込みで授業を受けているのであった。授業の内容は、クダの中を原油がどう流れるかとかなんかそんなようなものだったが、その記憶はもはやモコとしてよくわからない。その夜、行く秋に似合わず暖かだった晩に、その事件は起こったのである。

 四人部屋で、おなじ研修を受ける者同士、見知らぬ者たちが顔を合わせて泊まっていた宿舎だった。初日にあった「懇談会」でそれなりに親しくなった我々は、二日目の晩、辛かったその日を忘れるように、さらに辛いであろう次の日に備えるように、早めに床についていた。私はというと、布団に入ったものの、どうも寝苦しく、目をつぶっていても慈悲深い眠りの手が訪れる気配もない。しかたなく、持参した文庫本でも読もうかと、起き上がって枕元の小さな灯を付ける。と、隣で寝ころんでいた井坂(仮名)も、むくりと起き上がった。

『すまんすまん、眠れないので、本でも読もうと思って』
 この二重鍵カッコ(『』)はここでは「小声」の謂である。私がそう頭を下げると、井坂は軽くうなずいて、
『いやいや、わしも眠れなかった、だ』
 と彼の特徴であるヘンテコな訛り(わざとであるらしい)で言った。それでは、と二人で窓際まで電気スタンドを引っ張ってゆき、灯を付ける。
『ビールでも飲むか』
『なんか足りないとは思っていただ』
 廊下の自販機から缶ビールを買ってきて、開ける。本当に暖かい夜で、寝間着のまま窓際に来てみれば、窓の外にはH市の全景が、海岸にかじられたように弧状に輝いて見える。沖に見える灯は釣り船だろうか。私と井坂は、紙コップに注いだビールで軽く乾杯する。文庫本は閉じられたままだ。と、
「俺にもくれ俺にもくれ」
 と宇垣(仮名)が起き上がったので、私と井坂はちょっとびっくりした。
『すまん、起こしたか』
 と唇に指を当てながら私が言うと(まだこの部屋には江村・仮名が寝ているのだ)、宇垣も小声で、
『いや、タイミング、タイミングを』
 見計らっていた、という。電気スタンドの小さな明かりの輪の中、紙コップがもう一つ出されて、ビールが注がれた。

『オツなもん、だ』
『つまみはなんか無かったっけ』
「カキピーがあるぞカキピー」
「わしはカキピーよりピーナツが好きだ」
「またそんな誰も思っていても言わないことを」
 などと盛り上がっていた私たちは、ふと声音が元に戻っていることに気が付いて、どうやら本当に寝ているらしい江村のほうをうかがった。別に江村にバレると酒が減るとかカキピーのピーナツばかり食べられてしまうとかそういうわけではないのだが、起こしてはかわいそうだ。私は、小声で言った。
『江村も起きてるんじゃないかなあ』
 言ってから気が付く。べつに小声になる必要はないかもしれない。
『見てくる、だ』
『止めとけやめとけ』
 宇垣が止めるのも聞かず、井坂は江村の布団の所まで行くと、い、と小さな声を上げた。
「どうした」
「なんだなんだ」
 井坂は、黙れ、ということだろうか、こちらに向かって人さし指を一本立てて見せて、それから手招きをした。私は宇垣を顔を見合わせると、コップを置き、井坂と江村のほうに歩いてゆく。
「うあ」
 と私たちも小さく声を上げてしまった。江村は、かっと目を開いて、天井を見ていた。
『ね、寝てるのかな』
 起きているにしてはおかしいのだった。こうして江村の周りに集まってきたのに、身動きもしない。これで狸寝入り(目をあけているのにおかしな話だが)だとすれば、江村は相当な演技派俳優だということになってしまう。そんなはずはないのだった。
『そうらしい、だ』
『死んで、死んでいるんじゃ』
『息はしている、みたい、だ』
『目を開けたまま寝る人って、本当にいるんだなあ』
 江村は、まわりでそんなひそひそ話がされていることにも気付かず、どこか一点を見つめたまま、寝息をたてている。

『まばたきとか、するんだろうか。まばたき』
『してないように見える、だ』
『うわあ、気持ち悪いなあ』
『しかし、授業中は便利、だ、な』
 そんな馬鹿な。しかし、今まで必須と思っていた「眠るときには目を閉じる」がこうして必要条件でないことがわかってしまった以上、一概にないとも言えないのだった。白昼夢のような状態になっているのだろうか。周りがこのように、真っ暗ではない状態でも、眩しくはないのだろうか。目にごみが入ったらどうするのだろう。目が乾かないのか。そもそも何か見えているのだろうか。天井の一点を見続けているように見えるが、視界に人が入ってきても気にならないのだろうか。目に入った内容は、ちょうど目覚ましの音が夢に出てくるように、夢に影響を与えたりするのだろうか。そういえば夢を見るときは「REM睡眠」というように、眼球運動を伴っていたと思うのだが、とすると今は夢をみていないのだろうか(目が動いていないから)。

 などと、私がさまざまな謎や疑問を頭に浮かべては消し去っていると、
『ここは一番おれに任せろ』
 と、宇垣が江村に向かって手を伸ばした。見守る私たち。
『安らかに眠れ』
 宇垣は、江村のまぶたに軽く手のひらを置いて、まぶたを閉じた。映画で死体の目を閉じさせるように。見守る私と井坂は息を飲む。そんなことをして目を覚まさないか。いや、今なにか江村眠りの法則を破ったのではないか。手を離す宇垣。目は閉じている。
『なんだか死体をおもちゃにしているみたいなタブー感があるなあ』
 そう言った私の前で、さすがに江村が身じろぎをする。なぜか、転がるように窓際に退却する私たちを知ってか知らずか、江村は起きるでもなく、また眠りについた。

『寝るか』
『そうだ、な』
『まあ、そうしようか』
 と、なんとなく疲れて、私たちはそういう結論になった。江村を見習おう。夜は寝ないといけない。私たちは、コップを片づけると、電気スタンドを消し、もう一度眼下のH市の夜景を見たあと、布団に向かうべく、立ち上がった。と、
『ぷっ』
 私は噴き出した。窓から差し込む月明かりの中、江村のいったん閉じた目が、もう一回パッチリと開いていた。そっちが自然なのだ、と言わんばかりに。


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