ニッチに生きよう

 この前、東海道新幹線の車内で「グローバルニッチトップを目指す」という、ある会社の広告を見た。「ニッチトップ」とは、気持ちは理解できるのだが、ちょっとおかしい言葉である。まず「ニッチとは何か」であるが、大企業の活動範囲から外れている、特定用途向けの小規模な市場、開発製造業のことを「ニッチ市場」「ニッチ産業」などと呼ぶことがある。「すきま産業」という言葉がよい翻訳になっているかもしれない。この広告を出した会社は、ある用途向けにはとことん強いという専門性、多種少量生産に対応するきめ細やかさ、といった性格を強調したいのだと思うのだが、そのためには「ニッチ」という言葉はあまりいい言葉ではないと思うのだ。なんだか軽侮しているような言葉である気がするし、それ以前に、ニッチ産業のトップという考え方がそもそも変である。そういう価値観で語るべきものではないのだ。

「ニッチ」は、もともと生態学の用語で、自然環境の中で、ある生き物が生活してゆくために、どこからエネルギーを得、どこに生活環境を求めるか、という一つの「地位」のことである。生物は生き残るために互いに競争しているが、ジャングルならジャングルの中で生きている、全ての生き物が互いに競争をしているわけではない。たとえば葉を食べる生き物とその生き物の糞を分解する生き物は、互いに協力的な関係にあるからだ。この「葉を食べる」「葉を食べる生き物の糞を分解する」がそれぞれ一つの「ニッチ」である。ある葉を食べる生き物が二種いる場合、この生き物は一つのニッチを争っていることになる。逆に、なんらかの理由でこの葉を食べる生き物がいないと、そのニッチは空いている、と言える。

 この言葉を、経済学の用語として使いたくなる気持ちはよくわかる。商品やサービスを売るためには、買い手がいなければならない。逆に、買い手がいるところには商売ができる余地がある。たくさん買い手がいる物を作るとたくさん買ってもらえるわけだが、少しだけ買い手がいるものを作っても少しは買ってもらえる。小規模な企業が小規模な市場向けに物を作っているのが、この生態学的な棲み分けに似ているので「ニッチ」なのだろう。「大衆向けに大量生産する」ということだって一つのニッチであるはずだが、そっちの方にはあまり使われない。「CDのレーザーピックアップ」はニッチではなく、「DJ向けレコード針」はニッチ商品なのである。ニッチのトップ、というのは、そういうわけで、あまりうまくイメージできない言葉である。

 さて「適者生存」と言われるように、同じニッチを占める二種の生物がいた場合、通常、この種族間には激しい競争があって、片方がもう片方を圧倒することが多い。セイタカアワダチソウやアメリカザリガニのように、もといた生物を押しのけて外来種が繁栄する、というような状況のことである。ブラックバスはちょっと違うかもしれない(主として、ブラックバスの餌になる生き物が絶滅する、という話のようだから)が、オーストラリアにヨーロッパ人が持ち込んだイヌが、この大陸で同じ役割を果たしていた(つまり、同じニッチを占めていた)フクロオオカミを駆逐したように、旧来種を絶滅させてしまうこともある。

 しかし、こういう、外来種の輸入のように急ではなく、同じ土俵で二種類の生き物が互いに進化してきたような場合は、話はそう簡単ではない。変化がゆっくりだからか、一方が他方を追いつめてしまうということがなく、優秀なほうが大勢を握るのは確かなのだが、劣勢なほうも滅ぶでなく、わずかなシェアながら生きのびてゆくことがあるのだ。各ニッチに一種の生き物、というわけではないのである。

 これは、一つには少数派が生きてゆくべき「辺境」は常に存在している、ということがある。現実の生活環境が「ジャングルの十メートル四方」というようなある限られた一角ではなく、もっとオープンなものなので、「この環境ではこっちの生き物が有利」ということがあっても、別の環境に特化した生き物がいてもいいわけである。生物の進化はしばしば、こうした周辺の少数の生き物が激しく変化することによって生じる、という説もある。

 しかし、これ以外にも、少数であることそのものから来る利点もあって、捕食者や疫病の存在が挙げられる。ある環境である生物が多数派を占めていると、それはつまり、肉食の動物にとっては食べ物として非常に魅力ある存在だということになる。環境を圧倒するほど繁栄していた場合、毒を持っていようが迷彩に体を包もうが、ガードを破る方法を肉食動物は考えつくものなのだ。多数派の生き物に合わせて肉食動物も進化するので、肉食動物に食べられる多数少数二種類の生き物がいた場合、主に食べられるのはいつも多数派の生物なのである。わざわざ少数派に適応するような酔狂な肉食動物もいまい、というわけである。

 多数派は、病気も深刻である。同タイプの生き物で環境があふれている場合、いったん病気が発生するとあっという間に群れ全体に広がる。細菌やウィルスを、上で述べた「捕食者」として考えるとわかりやすいかもしれない。個体同士の距離も短いので、伝播も早い。こういう現象は一つの畑にそればかり植えてあるような農作物や家畜などに顕著で、壊滅的な被害を受けることがあるのだが、種を越えて病気が広がることはほとんどないので、少数派はこういうときにも安閑としていられるのである。

 説明が長くなった。以上を頭に入れていただいて、ちょっと別の話をしたい。最近、コンピューターウィルス入りのメールをもらうことがやけに多くなった。特に、先週流行が伝えられていた「W32.Badtrans.B@mm」は「猛威を奮っている」という表現がぴったりかもしれない、今のところ26人の別々の方々からウィルスを添付したメールが届いている。たぶん、私のページを見て下さっていて、パソコンのどこかに私のページのデータがキャッシュとして残っていると、書いてあるメールアドレス宛てに送信してしまう、という仕組みなのだと思うが、ここまでの数は今までなかったことで、ちょっと恐ろしい。これをご覧の皆様、ぜひ一度チェックのほどを。

 ところが、私は感染していないか、というと、これが平気なのである。なぜならば私はマックでメールを受け取っているからだ。ウィンドウズマシンも使っているのだが、メールのやりとりはずっと使っているアップルのノートパソコンでやっているのである。コンピューターウィルスは、ウィンドウズの特定のバージョンを狙ってプログラムされていることがほとんどなので、私のパソコンには感染しづらい。

 そこで、つい思ってしまうわけである。これはまさに、一つのニッチを占める二つの生物種、という状況ではないだろうか、と。ウィンドウズというOSが全般的に見て、ウィルス作者に利用されやすい「うかつなOS」であることは確かだが、大きなシェアを持った、多数派であることも重要な要因となっている。ウィルス作者はウィンドウズをターゲットにプログラムを行うし、セキュリティ上の弱点もよく知られている。みんなが使っているので「隣のパソコンにウィルスをコピー」という指令を送った場合、それがまたウィンドウズである可能性が高いし、たくさんあるのでマメにセキュリティ上の修正を行っていない人もまた多いだろう。多数派であるウィンドウズを使っていると、だからこそ危険も多いのである。

 これまでのコンピューターの史上で、これほどまでに生物界との対比が成り立つ時期は一度もなかった。現在のようにコンピューター同士が結ばれて、沢山のあまり知識のない人々が使うようになってはじめて、現実の世界のシミュレーションとしてネットワークが考えられるようになってきたのである。上に書いたように、現実の生態系では少数派もその利点を生かして、ニッチな地位を占めつつ、多数派とともに生きてゆける。家庭用ゲーム機のような他の業種のように、多数派が全てをとる「わけではない」時代がやってきたと言えるのである。ゲーム機のネットワーク化はセガの「ドリームキャスト」を救うことはできなかったわけだが、もしかしたらアップルコンピューターは、パソコンの生態学的な時代までわずかなシェアを守り通したことで、ついに、永久に滅亡を避けることができたのかもしれない。


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