しっぽは何にも言わないけれど

 旧聞に属する話で恐縮だが、先日行われた「東京モーターショー2001」に、トヨタが、感情を持つクルマ、という触れ込みで「pod」というコンセプトカーを発表していた。全体として丸っこいパステル調の「pod」は、走らせ方(荒いかスムーズか)やハンドルを通して感知する運転者の体調によって「機嫌」というパラメーターを持っており、カーナビ式のディスプレイに出てくる顔や、しっぽの振り方(どんなしっぽだか見られなかったのだが、しっぽがついているらしい)でそれを表現する。ソニーとの共同開発ということで、モモとかトロとかそういう名前が頭に浮かぶが、そういうデジタルペットの類のように自動車と人間が付きあえる、ということのようである。

 車にしっぽ、といえば、私も以前そういう話を書いたことがある。「感情ディスプレイいぬめり号」のことだが、この「いぬぐるま」と「pod」とは、微妙にコンセプトが違うというところにちょっとした面白さがあるように思うので、今日はそのあたりのことを書いてみたい。

 器質的な障害、つまり神経系ではなくて、器官の構造上の障害で感覚を失っている場合、後になってその器質的障害を取り除いても、感覚はすぐには戻らない、という話を聞いたことがある。たとえば、角膜に障害があるせいで盲目の状態で生まれた動物に、大きくなってから角膜移植を施しても、目としての機能は回復したはずなのに「目が見える」という状態にはならない、という。

 これは、それまで一度も目を使ったことがない場合、目から送られてくる情報を、脳が分析して、外界の情報として取り入れることができないせいであるらしい。これは、たとえばパソコンにプリンターなり、スキャナーなり、新しい周辺機器を物理的に繋いだだけではだめで、「ドライバー」という、周辺機器との通信方法を書いたソフトウェアをインストールしなければならないという、そういう事情に似ている。目はあっても脳にドライバーがない、という状態なのだろう。

 パソコンの場合は外から「周辺機器の使い方」が書かれたソフトを導入できるが、動物の場合はそうはいかない。新しい目から入ってきた情報をどう整理して外界の情報とするべきか、脳自身が訓練の末身に付けなければならないのである。しかし、これは逆に言うと、正常な目を持って生まれた動物もまた、自前の脳で「目ドライバー」をそれぞれに開発している、ということでもある。脳にはそういう柔軟性があるのだ。

 目そのもの、耳そのものにはさしたる差がないはずなのに、狩猟民や昔の戦闘機パイロットのように特に目のいい人、絶対音感を持っている人と持っていない人がいるように、目ドライバー、耳ドライバーの性能は、かなり訓練に依存する。これらは脳のトレーニングなのである。よく聞く疑問に「赤は本当に誰にとっても赤か」、つまり、私が見ている夕焼けとあなたが見ている夕焼けは郵便ポストと同じ色という意味での赤ではあるが、脳内ではバラバラの印象で処理されているのではないか、というものがあるが、こういう訓練による善し悪しがあると、同じであるはずがない、とも思う。

 さて、こういうドライバーは生まれてすぐでなければ身につかないかというと、そんなことはない。上で書いた「新しく加わった器官」でもそうだが、何か道具を操作する時のことを考えるとよくわかる。パソコンで文章を打ち込む時、すっかりキーボードに熟練した人である場合、入力したい「悪玉プリオン」はローマ字で「akudamapurion」で、まずaは左手の小指のホームポジション下にあるキーで、などということは考えない。自然にあくだまプリオン、と入力できるのであって、間に指とキーボードという機構が挟まっていると意識しないで入力できるのである。

 この、いわば感覚の延長効果と言うべき脳の働きは、おそらくほとんどの道具でそうで、私は弾けないが、ギターやピアノなどの楽器も同じことが言えるのだと思う。慣れてくれば、ごく自然に音楽と脳が結ばれて、間に指と楽器があることは意識していないのではないか。そして、その最たるものが、自動車の運転、ではないだろうか。

 自動車に乗っているとき、熟練者は、自分が自動車を操作しているだけで、走っているのは自動車である、ということをほとんど意識していないはずである。むしろ、自分自身が自動車の大きさに拡大して、自動車の速さで走れるようになって、アスファルトの路上を他の車とおしあいへしあいしながら走っている、という感覚ではないかと思うのである。進路がすこしぶれているからハンドルを細かく調整する、上り坂でスピードが落ちた分をアクセルの開度で補う、というような操作は、直感的に、脳と自動車の間に手足が介していないかのごとく行っているのではないだろうか。ちょうど、自分の背中のかゆいところを掻(か)こうとしたときに、そのために必要なあらゆる筋肉の曲げ伸ばしを意識しないように。

 そこで、話は冒頭の「pod」に戻るわけである。運転者にとっての自動車の存在が、そういうふうに「延長された手足の一部」であるならば、「pod」のような、自動車を「ペット」ないし「親しい友人」と考えるアプローチは成功するだろうか。背中を掻くときに、自分が望むのはちゃんと手が届いて、かゆみが収まることだけである。手が「そこまで指を伸ばすと関節に無理がかかって痛いです」と自己表現したり「かゆいのが収まってよかったですね」とほほえんだりすることを、人はあまり望まないのではないかと思う。

 要するに、自分の乗っている車にしっぽがついていたとして、そのしっぽが表現するものは、自動車の感情、などというものではなく、運転者の感情であって欲しいのである。現在の技術では難しいところかもしれないが、横道から本道に入ろうとした車を割り込ませてあげたときに、そこに私が見ているのは「車」ではなく運転している人間(と同乗者)である。その車がしっぽをふって喜んでいるときに、喜んでいるのが運転者本人だったらなあと、私は思う。


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