諸事情からしばらく忙しくしていて、ニュースといえば「めざましテレビ」の芸能ニュースとヤフーニュースのトピックスくらいしか見ない日々を送っていた。新聞もまともなテレビニュースも見られなかったのだが、それでも世の中の動きの概略は、なかんずく阪神の監督が星野さんになったことはちゃんと知ることができたので、もしかしてこれで結構世間的に生きのびてゆけるのかもしれないと思う今日この頃である。
さて、そんな太平楽な日々を送っていた私のもとに、弟から一通のメールが舞い込んだ。当時の私にとってはまったくの初耳の内容だったのだが、数日後、めざましテレビ、ヤフーニュースなど全国ニュースで大々的に紹介されることになったので、耳にされた方が多いと思う。携帯電話に関わるトラブル情報について、いわゆる「ワンギリ」についての警告メールである。
なあんだ、と思ったあなたの顔が目に見えるようであるが、しかし、考えてもみよう、仮にあなたがこの数ヶ月間というもの、猟犬「コロ」と愛銃三郎丸のみを友に、父のカタキである巨大な月の輪熊クロカブトを追って東北の山中深くさまよっていた場合、この話を説明抜きで始めては不親切に過ぎるというものではないか。そこまでは行かなくとも、数年後にこれを読み返す機会だってきっとあるわけで、断腸の思いではあるが、あえて蛇に足を書き込まねばなるまいと思うのである。
メールの内容をつづめて書けば、こういうことであった。携帯電話に気をつけろ。十万円取られるぞ。もう少し詳しく書くと、携帯電話に知らない番号からの着信履歴が残っているというのである。気になってその番号にかけてみると、それが情報料を取られるダイヤルQ2式の「番組」で、あとで巨額(一説によれば数十万円)の請求が来るらしい。要するにこれは悪徳な商法の一つで、業者がランダムな携帯電話番号にコール一回だけ電話をかけてすぐ切り(これがワンギリ)、着信履歴を残していっているということである。メールには、その業者が使う番号は以下の通りであると、三十個ほどの電話番号が書かれている。
さて困った。直感的に素朴に私のゴーストが告げるところによれば、このメールは信用できない。決してこのメールが弟から来たからではないし、メールに転送路を示す弟の同僚の署名と「以下は転送です」というタグが四人分くらい入れ子になって残っていてなんだか情けなかったから、でもないと思う。そもそも、いくばくかの真実が含まれているとしてもこういう情報をメールで伝えるほど危ういことはなく、噂の常として情報は容易に変形し、都市伝説と化してしまう。昔「当たり屋の集団がわが県にやってきた」というような話で、同じように手口と自動車のナンバーを三十ほど書いたビラが職場で回っていたという話があったのだが、それを彷彿とさせる内容である。
とはいえ理由も挙げず、ウソだろう、とだけ済ますわけにも行かない。弟は信用できる情報としてこのメールを送ってきているのだし、弟の会社では同様の感想を持った人が少なくとも四人、メール転送を繰り返しているわけである。試しに「ワンギリ」や「請求」「十万円」といったキーワードでウェブ検索をかけてみたのだが、これを強く否定する情報は(肯定する情報も)そのときはまだなかった。とすると、信じるにせよ否定するにせよ、自分の知恵と勇気と熱情でもってそれをなさねばならないことになるわけである。いわば大西の総体的な情報リテラシーが試されていると言っても過言ではない。春過ぎて、夏来リテラシー白妙の。いやいや。
まず、このような商法が成り立つのかどうか検証してみよう。自分でこの悪徳商法をやるとすればどうか。多数のランダムな電話番号に「ワンギリ」するのには、まったく資金はいらないし、パソコンかなにかで自動化もできる。また、常識的に言って、携帯電話の着信履歴にコールバックする、という人は無視できないほど多いと思う。以前、家庭教師のトライ云々という話をここに書いたこともあるが、あの着信履歴というもの、どうも気になってかけてしまうものなのである。誰か知っている人からの仕事の電話だったりしたら困るし、たとえそうでなかったとしても実害は一回分の通話料と、少々ばつの悪い思いをするくらいのことで済む。少なくともこれが共通認識だと思うのである。このメールはそうではないと言っているわけだが。
では、その核心部分、情報料の請求はどうやって行えばいいのか。ダイヤルQ2の場合、NTTが代金の徴収を行ってくれるそうであるが、その代わりに業者としてNTTに登録をしなければならないし(そうでなければNTTはどこにお金を払っていいのかわからない)、一分当たりの情報料の上限も定められている。一分百円だったかいずれその程度であったはずで、これで被害額十万円を叩きだすのはかなりの忍耐力と不屈の鈍感さが必要ではないかと思うのである。メールに添付された電話番号には0990で始まる番号はなく、このルートで請求を行うのは難しそうだ(※)。
とすると、業者は携帯電話のユーザーに直接請求を行わねばならない。これは、やや可能性はありそうである。携帯電話会社から名簿が流出するなどという悲惨なことがありえないとしても、この番号で懸賞の応募をしたことがあって、その名簿から住所と氏名が分かっている場合、直接請求書が送られてきたり、最悪の場合取り立て人がアパートのチャイムを鳴らす、ということが理論的にはありえる。そこまで行かなくとも、なにしろ電話番号は相手にわかっているので(最初に番号非通知でかければよいのだが、コールバックするときにはこんなことになるとは夢にも思わないので、その気配りができる人は少なそうである)、ここに何度も請求の電話がかかってくることは避けきれない。気が弱くて、払ってしまう人もいるかもしれないのだ。
しかしまず、このような請求は無効であろう。真実十万円程度の請求が来るとするなら、これはどう考えても不当な額であり、普通の人が黙って払うとは思えない額である。自分が好きでアダルト番組を聞いたお陰で巨額の請求が来た、などという場合ならともかく、このワンギリの場合被害者に落ち度はないのであって、警察に届けることを躊躇するとは思えないのだ。そして、いったん表ざたになればそもそも正当な理由がある、支払う義務のあるお金ではなく、またテレビや新聞にも取り上げられないのはおかしい事件なのである。「数十万円の請求」がただの誇張で、本当は請求は数千円から数百円程度だという場合は、そういうものかと払ってしまうかもしれないのだが、それにしてもどうやって払わせるのかという問題があるし(銀行振り込みだろうか。書留だろうか。未払いをどう監視するのか)、手間ばかり多くなって悪徳商法としてはあまりうま味がない。
私は、以上のような考察をメールにまとめて、弟に送り返した。この商法は、被害額が少なくて恐れるに足りないか、請求に正当性がなくて恐れるに足りないか、どちらかである。というより、そもそもこのメールに書かれた詐欺が存在するかどうかも疑わしいくらいの現実性しかなくて、とにかくチェーンメールにしてはいけない、と。弟にメールを転送してきた同僚にも教えてあげよう、と但し書きまでつけて、諄々と解いたのである。
と、そんなことがあって、三日ほど経ってからである。この「ワンギリ」に関する警告がニュースで流れはじめた。たとえばヤフーニューストピックスではNTTドコモのページが紹介されており、そこで「とにかくかけ直したりしないように」と注意されているのだった。私はちょっと、信じられないものを見るような、自分が信じていた何物かが足もとから崩壊したような気分だった。そこに改めて弟から来た自信満々のメールをみなさんにも見せてあげたい。どうだ我が社の情報力と統率力、とか、情報は世界を制す、とか、全てを疑うは全てを信じるに如かず、とか、そういったようなことが書いてあったと思う。
とはいえ、その後は、皆様ご存知の通り、最初の衝撃から覚めたマスコミの論調も「そんな馬鹿な話はよく考えてありえない」「実際に高額の被害に遭ったという人が見つからない」という感じに変わってゆき、事件は終息に向かったわけで、どうやら私の、この試練に対する対応は間違ってはいなかった、ということになったようである(憎らしいことに弟からは何も言ってこないが)。今読み返してみたら、NTTドコモのページにも「電話をかけただけで高額の請求が来ることは通常ありえないが」というような表現に変わっいる。こういう事件が全くないではなかったらしいのだが。
さて、後日譚である。この報道がされてからまた一週間ほど経って、会社の私のメールアドレスに、上司からのメールがやって来た。「携帯電話に注意」というタイトルに悪い予感がしつつ開いてみると、果たして、地元の警察署からの情報によれば、このような詐欺が横行しているから気をつけろ、というメールであった。注意すべき電話番号のリストはうんと長くなっていた。少なくとも情報力と統率力に関して、我が社にはなにか問題があるのではないかという気がしている。