アクシデンタルコインシデンス

 人生はしょせんいくつかの偶然の上に成り立っている、と思うことは多いわけで、これはもう複雑に入り組んだ現代社会がカオス的である以上いかんともしがたいことである。過去を未来に生かすために「どうしてこうなったのだろう」「どこで間違えてこうなってしまったのだろう」と反省してみるのはいいことだが、いくら考えてもこれといった答が出ないことも多い。それは、ちょっとした、本当にちょっとした偶然の積み重ねが今の自分を自分たらしめているからで、そもそも父母の体胎内の中で可能性のみ存在していた幾億の兄弟姉妹でなく自分が生まれたのだって、偶然といえばこれほどの偶然もない。

 もちろん、そんな偶然ばかりでは疲れてしまうし、将来の見通しも立たなくて不安定なことおびただしいから、我々の文明は偶然を減らすためにさまざまな努力を続けてきた、と言っていい。たとえば、定期的な健康診断は「偶然」かかってしまう不意の病気を克服するためだし、受験勉強は「偶然」出された問題が知らない話だった、ということがないように勉強するものである。何も悪いことをしていないのに「偶然」止まってしまうコンピューターもあるが、なるべくそうならないようにソフトウェア会社の技術者たちは日々残業を繰り広げているはずである。

 そんな偶然の働きの妙を、しかしいまだに毎日のように感じてしまう状況が存在する。それは、自動車がゆきかう路上である。青信号で道路を渡っていたら偶然信号無視のトラックが突っ込んできて死亡、などということがないように我々は時に歩道橋を渡るわけだが、偶然の導きを大きく感じるのは、むしろもっと日常、自動車を運転している時の道路の混み具合、というようなことに強く現れていると思うのである。

 たとえば私の通勤路では、途中、ある交差点で右折する車両が多いため、右折を待つ車列の、最後尾の何台かが直進車線にはみ出ている、ということがたまにある。右折のために待機している車が邪魔で、直進する私は、その先がすいているというのに、先には進めないのである。人間が交通整理をやっていればこんなことはないのだろうが、そこが交通信号機のあさはかさ、たまった右折車の台数が許容台数より一台多いか少ないかという些細なことで、デジタル式に直進路線が混むかどうかが決まってしまう。この原因の小ささ、影響の波及のしかたの大きさは、まさにカオス的と言えないことはない。

 先だっての休日、いつもはすいている二車線の国道で車を走らせていたときに、突然とんでもない渋滞に遭遇した。事故でもあったか単なる交通集中か、と疑問には思うものの、田舎のことで交通情報をラジオで得るというわけにも、簡単にはゆかない。首都高速湾岸線でトラック三台による事故があろうと綾瀬バス停付近を先頭に断続的に十キロの渋滞があろうと、茨城にいる私にとってみればどうだっていいのだ。とまあ、そんな感じでのろのろと一キロほど進んだろうか、最後にはほとんど止まってしまったので、これは事故とすればよほどの大事故だと思った。

「渋滞の先頭はどうなっているのだろう」「一度でいいから渋滞の先頭を走ってみたい」と思ったことは誰にでもあると思う。事故こそは一台の油断が何百台もの自動車に影響する事態なのだが、実際に渋滞に巻き込まれた場合、渋滞の原因がわかることは、思ったほど多くない。交通集中、つまり車が多いのでなんとなく渋滞しているような場合はもとよりこれといった区切りは存在しないわけだが、原因がはっきり事故の場合でも、自分が事故現場に到着したころには現場はきれいに片づけられていてあとに渋滞だけが残っている、ということがよくあるのだ。だからといってどうなるわけでもないのだが、「私がバカなので渋滞したんです」という見せしめに事故車をその場に残しておいて欲しいとも思う。それをやったらやったで脇見渋滞を引き起こしてしまうのだろうけど。

 その時、私が遭遇した渋滞は、そういう観点では珍しい部類、どうして渋滞していたかが最終的に分かった事例だった。車があまりにも進まないので、業を煮やして比較的すいている右車線に車線変更したら、急に車列が流れはじめ、すいすい進めるようになったのである。あれ、これは左車線の人に悪いなあ、ときどき減速して車線変更する人を通してあげないといけないかなあ、とラチもない事を思っていると、ある点で唐突に渋滞の列が終わっていた。左車線の車の列は「トイザらス」の駐車場に続いていたのである。

 そういえばその日はクリスマスイブだったのだが、これだけの車がいっせいに単一のおもちゃ屋さんを目指し、いっぱいになった駐車場の空きを諾諾として待ち、結果として国道を五キロ以上にわたって渋滞させているというのは、ちょっと想像を絶する事態であった。列の中には相当数、そうとは気付かないで左車線で待っている人もいるのだろうが、多くはプレゼントを求める子供連れの車だったに違いない。よく「日本ではクリスマスはすっかり恋人たちのものになってしまった」と嘆く人がいるが、まだまだクリスマスはどちらかと言えば子供達のもののようである。いや、それよりも、恋人ができて、結婚して、子供ができて(順不同敬称略)、結果この列に居心地悪く並ばなければならなくなるとすれば、それはそれでうらやましくない未来だと言えないことはない。もちろんすんなりとそこに至るまでにはいくつも偶然が待ち受けていることだろうが、これだけはなんだか避けえない未来のような気がするのである。

 私が自分の車を買ったのは二月なので、これが初めてのお正月ということになるのだが、諸般の事情から今年は帰省しないことに決めたので、この正月に関して言えば、渋滞に巻き込まれる事態にはどうやらなりそうにない。そんな私が言っても意味のないことかもしれないが、車で移動される皆様方におかれましては悪い偶然にあわれませんようにお祈りしております。どうぞ安全運転を。そして、よいお年をお迎えください。


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