寒さに負けない

「個人用エアコン」というのを考えてみたことがある。本当はこちらではなく「取り扱い製品の紹介」のコーナーの記事としてまとめればいい話だと思うのだが、うまく発展できなかったので、こちらに書いてしまっているわけだ。まず、私がふだん仕事をしているオフィスもそうだが、一般的に言って大部屋の冷暖房というものは、なかなか思い通りには行かないものである。暑いか寒いかどっちかしかない、と言ってしまってもさほどマーフィーの法則過ぎないと思う。これは一つにはエアコンの能力の不足ということがあって、エアコンの近くで風があたる位置にいる人にとっては冷暖房の効きすぎになる一方、噴き出し口から遠く離れて執務している人にはどうしても効きが鈍く思われる、という事情があるからだと思う。これは、エアコンや部屋の設計の不備である。

 しかし、この問題はそれだけではなくて、一人ひとりの体感温度が異なること、どういう温度を快適と感じるかが人によって違うという事情がそこに加わっているはずである。特に夏にはこの個人差は顕著に現れるらしく、家でクーラーをつけていると、私にとって快適な温度が妻にとって寒すぎる、ということが何度もあった。これをおしなべて男女差と考えてしまっていいものか分からないが、性差に限らず、もっと細かく見れば人によって少しずつ快適温度は異なることだろう。同じ人でも、風呂上りと寝るときの快適な気温は異なるはずである。こっちの解決はそう簡単ではない。

 そこで個人用エアコンである。これはたとえば、体をすっぽり包むサウナスーツのようなものになる。なんらかの携帯用動力を使ってヒートポンプを駆動して、スーツ内を「その人の今」にとって快適な温度に設定する。戸外に着ていけるようにするのは大変そうだが、屋内であればどうせ基本的なところでエアコンは効いているので、調整しなければならない温度の幅はあまり大きくはならないはずである。電源プラグにつながなくてもバッテリーで、あるいは理想的にはその人の体の動きによる発電でまかなえるような低電力で、その人の周囲だけを快適な温度に保つような装置が作れるかもしれない。極端な話、熱交換器ではなく、スーツ内の空気の換気速度をあれこれ変えるだけで、ある程度体感温度の調整ができるはずなのである。どんなものだろうか。

 とまあ、ここまで考えて、あることに気が付いた。もしかして「個人用エアコン」は、機械的な解決法よりも、ある種の薬で達成したほうがよい目標なのではないだろうか。

「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」に出てくるセントバーナード犬が「山岳救助犬」として使われているのは、客観的に見てマイナーな知識のわりに、日本ではみんな知っている話ではないかと思う。山岳救助犬というのは、遭難した人を見つけ出して、捜索隊に知らせる役目を負った犬で、犬たちは一様に首から小さな樽を下げている。これにはブランデーやぶどう酒が入っていて、遭難した人はまずこの酒を犬から受け取って、寒さをしのぐことができるのだそうである。これも何ゆえか妙によく知られた知識で、ここに書いてもしかたがないとは思うのだが。

 さて、そこで気になるところがある。樽の中身が酒、はいいとして、そもそも本当にお酒で寒さをしのぐことができるのだろうか。ぐでんぐでんに酔っ払うと冬の公園でも気持ちよく眠れる、というのは確かなことだが、だからといって凍死しないかというとするのであって、遭難寸前あるいは遭難後数日というような人の寒さをアルコールの力で簡単に退けてられるのかどうか、もっと言えば退けてしまっていいものかどうか、よく考えてみるべきではないだろうか。これが「熱い味噌汁」とか「あつあつの甘酒」というようなものなら、飲み物から得られる温度で直接に体温を補うことができると思う。だが、この酒の温度自体は、犬の体温によってやっと凍りつかないで済んでいる程度に冷やされてしまっているに違いないのである(どうでもいいが、ワインだとすると白ワインなのだろうか)。酒を飲んでほかほかしてきたとしても、出てくる熱はほとんど自前のカロリー、遭難者の体に残った残り少ないエネルギーが燃焼したものだろう(アルコール自体にもカロリーがあるのは確かだが)。だいたい、遭難にアルコールがそんなに効くならみんな酒を持って山に登るのであって、そんな話は聞いたことがないのである。

 いや、それでもこれで大丈夫なのだろうとは思う。梅にうぐいす、猫に鰹節、遭難救助犬には酒という「型」は、長年の経験と実績がスタンダードに押し上げたものに違いないし、少なくとも短期的には、気付け薬になり、血行を良くし、指などの凍傷を防ぐという意味があるはずである。それに、アルプスの山中の場合とは異なり、寒さを忘れてしまってもそのまま眠るように息を引き取ってしまったりはしない夏のエアコン効きすぎオフィスの場合、ちょっと血行を良くするくらいのことで冷え性の人が快適に過ごせるならば、それに越したことはない。

 ということは、理想的な個人用ヒーターとしては、ごたごたとした機械を身に付けるよりも、飲み薬一錠、というところまで行くべきではないかと思うのである。この薬は、全身の新陳代謝速度を向上させ、血行をやたらと良くする。体の中のエネルギーを猛烈に燃やすことで、どんな寒いエアコンにも負けない強い体を作るのである。もし本当にこんな薬があれば無駄な脂肪をが燃えるので体重も減るかも知れず、一石二鳥である。あまり問題があるように思われないが、やせる薬がないのと同じで、開発は難しいのかもしれない。

 寒いほうはいいとして、暑過ぎるほうはどうかというと、以前、なめると冷たくなる飴なるものがあった。妙なもので、口にいれると確かにキャンディーが冷たく感じるのである。この冷たさがどこから来るのか、たとえば神経が騙されることによる錯覚なのか、それとも口中の水分などと反応して本当に温度が下がるのか、食べてみた限りでは判然としなかった。もしこれが「冷たく感じているのである」ということであれば、これが個人用クーラーに使えるわけだが、後者であればアルコールを体に塗ってああ涼しい、というのと原理としては変わらない(※)。懐炉は役に立つのに、皮膚を氷に当ててもそれほど涼しくはならないから、どちらにしても、一部を冷やすのではあまり役に立たない。いっそ暑いほうも「酒を飲んで忘れる」という手段が今のところもっとも有効なのかもと思う。

 実際、暑さ寒さを改善する薬、というものができた場合、どういうものになるだろうか。たとえば、箱を開けると赤い粒と青い粒が入っていて、赤い粒を飲むと主観温度が一度上昇し、青い粒を飲むと一度分涼しくなる、というものになるかもしれないが、「酒こそ万能」という立場に立てば、緑の粒がいっぱい入っていて、飲むとプラスマイナス一度の差が「気にならなくなる」というものになりそうな気がする。十粒も飲めば、なにもわからなくなる。

 直接暑さ寒さを改善するのではなく、人間の主観的な暑さ寒さを修正する個人用エアコン。何か間違っているような気がするが、案外、来るべきエネルギー危機、地球温暖化問題に対抗できるのは「我慢する」という人類の知恵なのかもしれない。我慢しがたきをあえて我慢しやすくするために、ちょっとした人為的な手段を用いたとしても、まあ、背に腹は代えられないというべきではないか。人間の命は地球よりも重いかもしれないが、人間の快適さは地球に比べるとまだしも軽いと思うのである。


※ 先日、別の喉飴のコマーシャルでサーモグラフィ映像が出てきた。こちらは実際に少し温度が下がるのだそうである。私の食べた飴も、ではそうなのに違いなく、ちょっとこれは残念である。
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