適応の果て

 言ってしまえば、我々はすべて不完全で中途半端な存在であって、効率良く生きてゆくためだけにすべてが研ぎ澄まされているわけでは決してない。よりよく生きるためにはさっぱり必要でないヘンテコな知識は誰でも多かれ少なかれ持っているわけだが、私などさしずめそういう無用な知識と経験を湯煎してハート型に固めてでき上がった人間だと言っても過言ではなく、この血管には無意味な血潮が不毛に流れている。時折、夜寝る前などに布団の中でそういう役に立たない知識が頭に去来しては「ああ、この知識をブックオフにでも売っぱらって英単語の一つでも覚えることができれば」と悔し涙にかきくれることもあるのである。

 というわけで、これから書くのはそういう無駄知識の一つである。ファンタジー系のロールプレイグゲームに出てくる、剣とか斧とか槍とかいった武器の中に「ショーテル」というものがある。刀の一種なのだが、おおまかに言って疑問符、「?」の形をしている。クェスチョンマークのテンのあたりを握って、上の丸いところに付けられた刃で敵を刺すのだ。決して有名な武器ではないはずだが、形が特殊なので、この手のゲームを少し深くやった人ならあるいは知っているのではないだろうか。私にしても、この武器についての知識はすべて何らかのゲーム関連書籍から得たものであり、これがどの時代のどの地方で開発され、どのくらいよく使われていたのかという肝心なことを何も知らないのだが、この刀がこんなふうに曲がっている理由はよく知っている。これは「盾の向こうを攻撃する剣」なのである。

 つまり、ショーテルを使うと、相手が構えている盾を曲がった刃で迂回して、相手の腕や体に対して斬り付けることができる。そういう武器なのである。この知識の無用さ加減には鬼神も思わずもらい泣きをすると思うが、無駄な知識に無意義な考察を重ねるとして、さあ、これをいかに評価するべきか。盾を迂回するとは、そもそも考え方がちょっと陰険だし、刃が届いたとしても力が入りにくい感じで、あまり効果のあることとも思えない。だいたい相手がエイヤと盾を捨ててかかってきた場合、いきなりショーテルの利点は雲散霧消してしまうのだ。変に曲がっているショーテルで盾を持っていない相手と戦うのは控えめに言っても面倒そうで、「!」の形の普通の剣のほうが強そうだ。確かに、形を見れば設計意図は理解できる。作るのも難しくて高価なものに違いないのだが、ショーテル一本に命を賭けて、という感じではない。はっきり言ってしまうと、こんな武器に自分の命を託したくはないのである。

 武器や兵器のたぐいにはこういう考えすぎ作品というのが結構あって、似たイメージの例をもうひとつ挙げると「クルムラウフ」という名前の曲がったライフルを見たことがある。自動小銃の先がブニャリと曲がっていて、信じられない話だが、こうすると銃弾が銃身にそって曲がって飛んでゆくのだそうである。わざわざ曲げて作る目的は「壁の向こう側にいる敵を顔を出さずに狙撃する」ということらしい。複雑な光学装置が照準用に付属しているのだが、にもかかわらず、何というか、こんなもので狙ってもちっとも当たりそうでない。なんとか暴発率を押さえて制式化してしまうとは考えるだに恐ろしいことだが、この兵器を作ったドイツ軍は何を考えていたのだろうと思う。いや、そもそもドイツはそういう国だといえばそうなのだが。

 こういうのを、進化学の言葉で、過度適応、あるいは過剰適応という。マンモスやサーベルタイガーの牙がそうなのだが、はじめは有効な武器として生物が備えた器官が、大きいほど偉いというべきか、大きいほど進化に有利に働くため、世代を追うごとに父より子供、子供より孫の牙という具合にどんどん大きく進化してゆく状況がある。もちろん、いくら武器になるからと言っても牙はいくら大きくても大きいほどよいというものではなくて、どこかで有用さが最大になり、そこを越えるとむしろ邪魔になってくるはずである。しかし、いったん進行しはじめた進化の方向性はとどめられない。「そのほうが有利なのだ」と勘違いした進化の力は、細かいことはおかまいなしに牙を大きくし続け、しまいには異様なほど巨大化した牙を持った生き物を作る。これらの生き物は、あわれ、牙が大きくなりすぎたことによる不都合に耐えかねて、滅んでしまうのである。過度適応とはつまりそういう意味である。

 とはいえ、実はこの説は今では信じられていない古い学説である。進化の力は「世代ごとに牙を大きくしてゆく」などと代々伝わる方向性を持っているわけではなくて、世代ごとに最も有利な個体が生き残る、という自然淘汰の力が存在しているだけであるらしい。たとえば牙なら牙が、子にとって不都合なほどの大きさになってしまったら、その子は孫を残せないというかたちでその後の世界から取り除かれる。子たちのうち、ちょっと小振りな牙を持っている者がかわって孫を残し、彼らが主流になることで牙の大きさの拡大は抑えられる。「牙が大きくなるのを止められなくて」という考え方は、たとえば人間とそれが作り出した科学技術の負の面、公害や生物兵器や核爆弾などのことをいかにも思い起こさせるので人口に膾炙しやすいのだが、有り体に言って、間違った学説である。

 しかし一方で、環境にあまりにピッタリに進化してしまったので、ちょっとした環境の変化にも耐えられずに絶滅してしまう、という感じの絶滅のしかたというのは考えられる。たとえば、アリクイは鋭い爪と長く伸びた舌を持っていて、爪でアリの巣を破壊し、舌で巣穴の中のアリを舐めとって食べる生き物である。アリばかり食べていていいのか、そもそもアリはそんなにおいしいのか、きっと酸っぱいのじゃないのか、と疑問に思ってしかるべきだが、それでなんとかやっていけるものらしい。しかし、アリの味はともかく、こういうふうに進化してしまうと、ことアリを食べる一面では雑食性の他の生き物(たとえばチンパンジー)に比べてはるかに有利かもしれないが、今年はアリが不作だから他の食べ物でなんとかやってゆく、というわけにはゆかない。なにしろアリクイには歯がないのだ。

 このアリクイの例のような、特殊化したおかげで環境の変化に弱くなった、というのを過度適応と表現してしまっていいものかどうか、実はちょっと自信がない。ショーテルやクルムラウフはこっちの、アリクイに似た例だと言えるのだが、適応しすぎの進んでゆく先が「大きすぎ」というのではなくて「専門化しすぎ」ということで、ちょっと方向性が違うのだ。では正しい過度適応の例、大きくなりすぎるその力をとどめられなくて、という例がなにかないのかと考えてみると、ある。

 それは、こういうのである。先日テレビを見ていて「フィジーでは女性の髪が細かく整っているほど美しい」という話題があった。こういう民族の美意識の紹介の仕方には危うさがあって、似たようなものに「この一族では首が長いほど美しいとされている」というような話がある。納得しそうになるのだが、よく考えてみると「美しい」という属性に、ナニナニほど美しい、というリニアな価値観が許されるのだろうか。自分たちで考えてみると、美意識とは明らかにそいう数値的なものではなくて、たとえば胸が大きいほど魅力的とか、背が高いほどカッコいい、などということは決してない。どこかに「ここまで背が高いとなると逆にデクノボウみたいな感じがする」という一点があるはずである。「首が長いほど美人」という種族にだって「俺はあそこまで長いとちょっとなあ」みたいなことを言いだす男はいるはずで、そこを無視して「ナニナニほど美しい」と紹介してしまってはいかんと思うのである。

 ところが、よく考えてみると、最近の若者の流行の紹介、という形式のテレビ番組を見ると、たしかにこの「ナニナニほど美しい」という風潮が見られるように思うのだ。テレビの紹介の仕方が興味本位だから、言われていることをあまり信じ込んではいけない、若者文化の実情を正しく映してはいると考えてはいけないのかも知れない。しかし確かに、以前「厚底靴」が流行したときに「厚いほどカッコいい」という意味のことをニュースで言っていた若者の姿を私は記憶してはいるのである。少なくとも、外国のテレビに「日本では靴の底が厚いほど美人と見なされる」と報道されても文句は言えないのではないかと思った。遺伝子による進化と違って、ミームによる流行はいつでも後戻りできるものだが、厚底靴のせいで自動車が暴走して死亡、などという話を聞いて、不謹慎ながらうまく比喩が成り立っていると感心したりもした。似たような話に「顔が黒いほど美しい」とか、最近では「マフラーが長いほど美しい」というのも見たことがある。さらに、暴走族の改造車なんかを眺めていると、なるほど「エアロパーツは大きいほど格好いい」という方向に進化している気がするのである。

 大きいほど進化に有利、という過度適応の正しい比喩になっている例が、どれも美意識に関連したものだというのは面白い話である。もしかしたら、マンモスもサーベルタイガーも「牙が大きければ大きいほど女の子にモテる」という感じになって、みんな際限なく牙を大きくしてしまったのかもしれない(そういう例は実際にあるらしい)。そうだとすると、美意識に駆動される進化の暴走こそ、過度適応の正しい意味だと言えるのかもしれない。

 さて、特殊化を避けてゼネラリストとして生きるべきだ、という教訓は、私のようにいいかげんな知識を浅く持っているだけの人間には当てはまらないと思うのだが、正しい過度適応の教訓はいつも心に銘じて生きるべきである。すなわち、文章は長ければ長いほど面白いわけではない。と、そういうわけで、今日はここでおしまいにするのである。


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