その黒いものはなんだ

 幾度かここで触れたことがあるかもしれないのだが、いわゆる理系と文系とを比較したとき、ごくごく荒っぽく、それはある能力の存在と欠如である、というふうに捉えても、もしかしたらさほどの不都合は生じないのではないかと思うことがある。理系にあって文系にないというある能力とは、たとえば論理を操る力、現実を抽象化して演算する力といったものになるのだろうが、これらの代わりになるべき文系ならではの才というと、たとえば史学や法学がそうであるように、結局はその分野に関する知識の量ではないかと思うのである。理系を文系から隔てるものが物事の考え方、問題を解く器用さという質的な差(いわばセンス)であるのに対して、文系が理系よりも優れている点はその専門分野に関して他人より広く深い知識を持っているという、量的な差(いわば努力)に帰するのではないだろうか。

 もちろん、量的な差があるレベルを超えると質的な差に他ならなくなることは多々あって、たとえば英語がしゃべれるかどうかというのはその人の能力の質的な違いだが、しかしある閾値を越えた知識量の違いであると言ってもよい。また、そもそも理系と文系という分け方そのものが現実の社会においてさほどの意味を持っておらず、上の段落は私が虚に向かって吠えているに過ぎないという気もちょっとする。とはいえ、ある種の人々に蛇蠍のように忌み嫌われている「数式」が持っている凄い力については、もっと広く理解されてもいいのであって、自分が文系であることを理由に避けている人がもしいれば、ちょっと立ち止まってお付き合いを願いたい次第である。ご安心あれ、今回出てくるのは「式」であるが「数式」ではない。

 ここに「⇒」という記号がある(大丈夫これは機種依存文字ではない)。この記号の意味については、たぶん、高校生あたりの数学で習うのではないかと思う。数学の「必要条件」と「十分条件」を表す矢印である。私など、どっちがどっちだったかすぐ忘れてしまうのだが「矢を放てば十分」「矢の先は必要」という便利な覚え方があって、
 十分条件 ⇒ 必要条件
と書くことができる。ここで「十分条件」と「必要条件」の意味を言葉で表そうとすると、ちょっとややこしいことになる。十分条件が成り立てば、必要条件は成り立つ。しかし、必要条件が成り立つからといって、十分条件が成り立つとは限らない。そういうことなのだが、一読してなんだかよくわからない。ところが、この矢印の向きを見ると、直感的な理解ができるのではないだろうか。たとえば、こうだ。
 猫 ⇒ コタツ好き
わかりやすい。確かに猫はコタツが好きだ(たぶん)。本当はもう少し厳密に、
 すべてのAについて、Aが猫である ⇒ Aはコタツが好き
というふうに書くべきなのだが、ここではそんな固いことは言わないことにして、いくつか並べてみると、意味するところは明らかだろう。こういう具合である。
 ポスト ⇒ 赤い
 カレー ⇒ 辛い
 パンダ ⇒ 笹が主食
 自動車 ⇒ 左側通行
 金のつぶ ⇒ 臭わない
 うお座の今日の運勢 ⇒ 末吉
 変えれない生命保険 ⇒ ザ・ベクトルじゃない
いくらでも続けられるが、つまりこういうことである。わかりにくい文章も、式で書くと理解が簡単になる。
 大陸 ⇒ 何万年もかけて移動している
 地球の中心 ⇒ 非常に高温
 空気中の酸素 ⇒ 植物の生産物
微妙にブツギをかもしそうだが、まあざっとはその通りである。少なくとも「関西人⇒タコ焼き好き」よりは確かである。さらに、こんなのもある。有名な「ジャイアニズム」の、別の形での表現である。
 おまえのモノ ⇒ オレのモノ
式の「味」をかみ締めて欲しい。

 この矢印には向きがあるので、矢印の前にあるか、後ろにあるかが重要で、ひっくり返すとまったく意味が異なるということには注意する必要がある。この、矢印の前後を入れ替えた式を、もとの式の「逆」と呼ぶ。特に気をつけるべきことは、元の式が正しいとしても、「逆」のほうは、常に正しいわけでも、常に間違っているわけでもなく、何も言えないということだ。「猫はコタツ好き」をひっくり返すと、
 コタツ好き ⇒ 猫
になるが、これは一般には正しくない(私は猫ではない)。ただし、正しくないということは、何かコタツ好きのものを取りだしたときに、それが猫でないことを保証しているわけではない。コタツ好きなアレは、ネコであることもあるし、パンダであるときもあるし、ダックスフントであることもあるのである。「逆は必ずしも真ならず」とこの定理を表現する。さらに言えば、
 オレのモノ ⇒ おまえのモノ
は正しくも間違ってもいないので、たまにはジャイアンのモノだが私のモノでもある場合があってもいい。もちろん、ジャイアンはすぐにこう言うのである。
 オレのモノ ⇒ オレのモノ

 次に、式の両辺を否定文にしてみる。こうして作ったものは元の式の「裏」と呼ばれるが、これは「逆」がそうであるように、正しい場合も、正しくない場合もある。
 猫でない ⇒ コタツ好きでない
正しくない。でなければどうしてコタツが売れるものか。
 おまえのモノでない ⇒ オレのモノでない
なんだか気持ちのいい男になってしまったが、元の式とは意味が別になっている。この「裏」は間違っているだろう。オレのモノはオレのモノだからである(※)。

 さあ、やっと最後にたどり着いた。今「逆」をとって、それから「裏」を作ってみる。つまり、矢印の両側を入れ替えて、それからどちらも否定文にする。この操作を行った結果できる式は元の式の「対偶」と呼ばれるのだが、この両者の真偽は一致する、つまり、もとの式が正しければ「対偶」も正しいということが、定理になっている。やってみよう。
 コタツ好きでない ⇒ 猫でない
驚くべし、確かに正しい。猫が全部コタツ好きだとすれば、確かにコタツがキライな猫はいない。一方、
 オレのモノでない ⇒ おまえのモノでない
いくぶん傲慢さが消えてしまっているが、同じ事を言っているのだということに、しばらく考えると気がつく。オレのものにならないおまえのモノはないのだ、ということなのだ。こういうふうに論点が明らかになるというのは、式を使って考える、大きな利点の一つである。

 さて、式の威力がわかったところで、今たまたま手元に「かっぱえびせん」がある。この古くて新しい、カルビーのスナック菓子の袋の裏をのぞいてみると「エビには極めて多量のアミノ酸が含まれています」とか「かっぱえび船 就航中!」とかいろいろ楽しい内容に彩られているのだが、下の方にこう書いてある。

 ときどき黒い粒つぶがはいっていることがありますが、これは焼き上げのとき、コゲが食塩粒に付着したものですから、ご安心ください。

 なるほど、そうであるらしい。かっぱえびせんの中に実際に気になる黒いものが入っていたことなど思い出せないのだが、そうなのであれば安心してよさそうだ。いや、本当にそうなのだろうか。カルビーの主張するところを、式で表してみるとこうである。
 黒い粒つぶ ⇒ コゲが食塩粒に付着したもの
しかし、そんなはずはないのであって、これは、このえびせん文の対偶を取ると、よくわかる。
 コゲが食塩粒にくっついた物以外のすべてのもの ⇒ 黒い粒つぶに見えない
これは正しいとは思われない。こんな世の中である。何が起こるかわからないのであって「何か塩ではない黒い粒つぶ」が入っている可能性だってないことはないのである。ええと、ゴマとか。したがって対偶は正しくないわけだが、そうすると、もとの文章も自動的に正しくないことが証明されるのだ。

 まあ、本当のところは、黒い粒はコゲが塩ツブにくっついたものであることが多いのだろう。しかし、良心があるならば、せいぜい言えることはこうである。
 コゲが食塩粒に付着したもの ⇒ 黒い粒つぶに見える
これはえびせん文の「逆」にあたる。どうやらこちらは正しい主張だと言ってもいいと思う。えびせん文は、本当はこう書くべきなのに「逆」と混同してしまっているのだ。日本語の文章にすると、こんな感じだろうか。

 焼き上げのとき、コゲが食塩粒に付着するため、ときどき黒い粒つぶがはいっていることがあります。

 もちろん、安心せよなどとは言えないのである。しかし事実としてこれを書いておく。それが企業倫理というものだと思う。

 ところでこの文章、このように「逆」が正しいとるすと、「逆」の「対偶」、つまり、最初のえびせん文の「裏」もまた正しくなる。それはこうだ。
 黒い粒ではない ⇒ コゲが食塩粒に付着したものではない
まことにその通りで、いまや数学の力を得た我々には自明のことである。えびせんの袋によく入っている、白くて細長くて軽く波目がつけられた食べるとおいしいアレは、コゲが食塩粒に付着したものではないのである。十分な注意が必要なのである。


※ところで、これはいかなる場合にも真実で、逆にしても正しいので「必要十分条件」という。これは記号「⇔」で表す。
 オレのモノ ⇔ オレのモノ
当たり前すぎて嫌になってくるが、元の文も逆も正しくなる場合「⇔」で結ぶということである。
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