犬と歩けば

 特に目的もなくリンクからリンクへと情報をたどってゆく行動のことだが、「ネットサーフィン」という言葉が最近はやらない気がする。もともと誰からも好かれていた言葉とは言えないが、こういう行動そのものをみんなあまりやらなくなったと思うのである。そもそも、ネットサーフィンの、現実世界における相同語は「さんぽ」ということになるのだろうが、その散歩にしても、普通は本屋なりパチンコ屋なり何か理由があるものであって、単なる気晴らしに歩き回ったりはなかなかしない。ジョギングやウォーキングになってしまうと、散歩とはまた違うのだ。考えてみれば、何であれ目的に向けてまっしぐらにたどり着けることこそがインターネットの本質的な利点である。目的地に道中までを含んだ「散歩」が意味を持たないのも当然とも言える。結局、人間というもの、普段暮らしていて理由もなくうろついたりはしないものだということかもしれない。

 例外として、飼い犬を連れ歩く「犬の散歩」は目的地がなく、道中だけに意味がある行動だが、してみるとインターネットを活性化するには、意味もなく一日一回散歩をせがむソフトウェア犬の導入が有効ではないだろうか。今まで見たことがないページを見たい、とせがむ犬に連れられて、テキトーなリンクをたどってテキトーな情報をなんとなく見つめてみる。犬はところどころで「なわばり」を主張したり、サイトにつながれている飼い犬と喧嘩をしたり、そうかと思うと他の飼い主を連れた犬と邂逅してお互いのお尻の臭いをかぎあったりするのである。意外と面白そうな気がしてきたが、誰か作らないだろうか。

 犬は置いておいて、そうは言っても私も時には散歩もする。ふと気が付くと知っている街の知らない小道を歩いていて、後から思い立ってもその店には二度とたどり着けないというような、あるいはうねうねと歩いていたら思いもかけない方向から大通りに戻ってきていたというような、そういう幸せな散歩体験がネット上にはないかというと、たまさかにはそういうこともあるのだ。今思い出したあの面白い文章はどこで読んだのだろう、あのサイトのリンク先からリンク先をたどって、と考えても二度と発見できないようなとき、もどかしさとともに、ネットの広大さを実感して少し嬉しくもあるのが不思議だ。

 ただ、業の深いことに、私に関して言えば、そうやって何気なく訪れて記憶に残っているページは、楽しかったものよりもなんとなく気に食わなかったものが多い。もしもう一度たどり着けたら一言文句を言ってやろう、と探してみたりもするのだが、こういう場合見つからないほうが幸せというべきである。つまらないことでいちいち喧嘩を売ったりすればきりがないし、ろくなことにはならないのは分かりきっているのだ。

 たとえば、最近では「新iMac」、例の、どんぶりを伏せてお盆を上に置いた形のアップルの新機種を批判した文章を、もう見つけ出せないどこかのサイトで読んだ。筆者は文中で、このデザインをさまざまにからかっていて、しかし読んでいてさっぱり面白くない。私がマックを使っているからiMacをそしる文章に点が辛くなってしまうのだとは思いたくないが、あるいはそうなのかもしれない。しかし、機能や価格ではなくデザインを批評するのであれば「どこが自分には受け入れられないのか」について説得力のある、新しい視点を提示できなければ読み物にはならないとも思う。

 そもそも、自分のセンスだけを根拠に何かをこきおろすのは、傲慢なふるまいというべきである。もちろんそのデザインが自分にとってどうだったか、個人的にどう思うかということはいつだって誰だって話してよいことだが、一般にはそれは共感を得ようと思っていないという点で、広報する価値のない、極私的な情報だ。私は、ウェブ上の文章を読んだ感想として「ああなるほど、確かにそう考えるとダメだな」と、思ってもみなかった視点に気づかされたいのである。批判の言葉の醜悪さに顔をしかめるのではなく。

 とまあ、以上のように意見を文章にしてみると、やっぱり道を引き返して筆者に叩きつけたりしなくて良かったと思う、その程度の感想ではある。千鳥足でウェブ上を辿っていると、こういうふうに、書いてもしようがないのに、書きたくなってしまう反論を拾ってしまうことがあるのだ。去年のはじめのほうになるのだろうか、サッカーのtotoくじが始まったころに、あるサイトで読んだ文章に、反論したくてしたくてならなかったことがある。このときはちゃんと反論文を仕上げたのだが、肝心のサイトがどこだったのかわからなくなってしまい、今なお再びたどり着くことができない。

 私が読んだその文章が主張するところによれば、totoくじに関連した「情報雑誌」やそれを買う人々について、どう考えてもおかしな点がある、という。その頃、ちょうどtotoくじに関連した雑誌がばらばらと出始めていた時期で、それを批判してのものなのだが、論点は二つあった。一つは「雑誌はよく『これを買えば当たる』とうまいことを言うが、そんなに当たるなら自分でtotoくじを買えばいいじゃないか(そして編集者は買わないんだから、つまり当たらないんだろう)」ということ、もう一つは「数百円もする雑誌を買うお金は、totoに投資したほうがよっぽど効率が高い」ということである。

 どうも趣味のいいこととは思われないが、いまさらながらここに反論を書いておこう。まず、確かとは言えないが、「買えば当たる」「絶対当たる」なんて書いてある雑誌は存在しないのではないかと思う。それはあからさまな嘘であり「当たらなかったじゃないか」とあとで読者に叱られるに決まっているからである。出版社がまともなところであれば、小さく「かもしれない」とか「可能性がある」とか書いてあるのを見落としているのではないかと思う。世の中は、そこまでいいかげんにはできていない。

 二つ目はちょっと込み入った話になるが、雑誌に払うお金が無駄だとは言えないのである。いま、totoくじにおいて、データが不足しているように思えてうまく判断できない試合が一つあったとする。簡単のために引き分け(今は「その他」になっているが)はないとして、勝ち負けのどちらも買ったとすると、購入に必要な金額は倍に増える。気をつけないといけないのは、ここで購入金額の増加がくじ一本分(百円)ではなくて「倍」だということである。そういう不確実な試合が既に3つあるところに、4つ目の不確実な試合が加わると、購入金額は八百円から千六百円に増加してしまうのだ。もともとほとんどの試合について確信があって、不確実なあと一つの試合について判断したいがために雑誌を買う、という人にとっては、四、五百円の価格は確かに高い。しかし、J2の三試合なんて何もわからないのでそれさえ判断できれば不明な試合が減るのだ、確信がない試合があと三つになるのだ、という人にとっては、雑誌は実に五千八百円分の価値を持つことになる(もちろん、雑誌の予想が正しいという前提での話だが)。

 そうではなく、toto雑誌への批判は次のようになされれば良かっただろうと思う。totoくじはそもそも、控除率(主催者側の取り分)の高い、損な制度である。たとえば競馬の場合、売上げから二五パーセントくらいを引いて残りが賞金として分配されるのだが、これがtotoの場合、五〇パーセントものお金が「スポーツ振興」に使われてしまう。だからtotoなんて買うのを止めよう、というのではなく、totoは、本来サッカーが好きでもなんでもない人が、儲けようとか、当てようと思って買うべきものではないというべきである。サッカーが好きで、試合の行方について自分なりの意見を持っていたりする人が、予想を楽しむものなのである。その意味では、雑誌の、射幸心をあおるような特集のしかたはtotoにとって不幸なのだろう。雑誌で手っ取り早く情報を集めて、一攫千金を狙うような人は、賞金に魅力がないとすぐ離れていってしまう人でもあるから。

 と、いうようなことを、私は誰に言っているのやら、たぶん自分の飼い犬に向かって話しかけたりながら、こうして冬の長い夜の時間を歩いている。けだし、無駄な時間ではあり、うろうろすることがいいことなのかどうかまだわからない。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む