頭の天辺に

 なあ、君が知っていると嬉しいんだけど、こんな話があるじゃないか。数学的帰納法を使って、全ての人は禿(はげ)だということを証明する、ってやつ。

 知らない、そか。じゃ、説明するけど、数学的帰納法というのは知ってるよね。証明したい何かがあったとして、n=1の時に成り立つことをまず証明して、次に、n=kのときを仮定すればn=(k+1)の時に成り立つというのを証明する。そうすると、将棋倒しみたいに、全部のnについて証明が成立する、ってやつ。これは知ってる、うん、そうか。よし。

 で、全ての人は禿だ、というのは、この数学的帰納法を扱った本にちょくちょく出てくる話なんだけど、こういうの。まず、毛が全然ない人は禿だけど、毛が一本くらいあってもやっぱり禿だと。これが毛の数n=1のときの証明である。それで、禿の人の、毛が一本増えたくらいでも禿なのは変わらないというのは言えるよね。これが、n=kのとき禿であればn=(k+1)の時も禿である、という証明になっているわけ。そうすると、帰納法によって、全ての自然数nについて証明が成り立つんだから、全ての人は禿でなくちゃいかん、ということになる。もちろんそんなことないので、こりゃパラドックスだ、というかおかしな話だよという、やってらんないよという、そういう話。

 そうそう、でね、オレいつも思ってたんだけど、この話どっかおかしいよな。いや、パラドックス話だからどこかおかしいのは当たり前なんだけど、そこじゃなくて、前提の話。だいたいからして「毛が一本というのは禿だ」というのが、国民の常識からかけ離れたナガタチョウの論理というやつではないかと。あ、永田町関係ない、わかってる。だから、そもそも、毛が一本というのは、既にもう禿じゃないだろうと思うんだわ。

 もしかしたら、この話もともと英語かなにかの翻訳で、アチャラカではまた事情が違うんかも知れないんだけども、少なくともニッポンではだよ、禿は毛がない、完全にない状態だけを指すんではないかと。いや、毛がちょっと薄いくらいの人のことを指して禿と言うことがないかというと、確かにあるんだけども、それは分析すると比喩的表現じゃないかと思うんだよ。んーと、ほら「うっせえこのハゲ」みたいなことをだれかれ構わず使ったりするじゃないか。な。でも、厳密な定義によれば、毛が一本でもあると禿じゃないよあ、とみんな考えてるんじゃないかと、ワタシは思うわけです。

 んだから、この証明は初手から間違っていると思うんだけど、いかがなものか。だいたい、毛が一本あってもハゲだ、なんてことを言うとナミヘイさんが怒るぞと思うんだわ。いや、オッケー。わかってる。オッケー。みなまで言うな。波平さんは側頭部に毛があります。知ってます。でも、あの頭頂部の一本の毛を大事にしてるのはしてるのであって、あれが自分を「頭頂部禿」から救ってるんであると本人は思ってると、少なくともそういう設定の話だよな。違うんだっけ。ええい、波平さんはどうでもいいです。いや、海平さんもどうでもいい。関係ありません。ほら、ほらほら「オバQ」がいるじゃないか。オバケのQ太郎。彼は毛が三本であって、あの三本の毛が重要でしょう。オバQは三本毛があるから禿じゃないよ、と、六〇年代から七〇年代に子供時代を送った人はみんな言うのではありますまいか。 そしてワタクシもそういうふうに思うのであります。あえて言えば、毛が三本は禿ではないのでありますと。

 しかしそれにしてもだね。毛がもしゃもしゃ生えているのは美しくない、とされてるよね。ワキとか、ビキニラインは好き嫌いあるとして、あ、こら、ここは笑うトコじゃない。ええと、だから、胸毛とか、スネやら腕の毛なんてのは奇麗なもんじゃないと。いや、俺もそう思う。自分で言うのもなんだけど、なんだか格好いいもんじゃないよな。顔のヒゲだってそうで、伸ばしている人で格好いい人というのはあんまりいないと思う。テレビに出てくる人でも、剃りゃいいのに、という人って、一杯いると思う。誰とは言わないけど。

 でも、髪の毛は例外なんだよ、不思議だけど。いや不思議じゃないか。小学生くらいの子供の状態を標準として、ここから離れると美しくない、ということかもしれないもんな。じゃあ、犬猫はどうかと。あれは全身に、それこそ顔から腹から背中から、もじゃもじゃじゃないかと。でも、だいたいは犬も猫も、可愛いということになるんだよ。毛がない種類もあるけど、そっちが逆に可愛くないように思う。いやキミはどうかは知りませんが、ボクはそう思う。結構毛だらけ猫灰だらけ。猫が毛だらけというのはわかるけど、灰だらけというのはどういう意味ですか。知りません。

 あうあう、だからだね。えー、最後まで聞いて下さい。この表面的な矛盾、ある種の毛が美しさの象徴で、またある種の毛が不潔さの象徴だったりするのは、犬が可愛かったり、髪の毛は生えてても変じゃないのは、要するに密度の問題じゃないかと、こう思うわけです。ミツド。どれだけ詰まってるか。びっしり、地肌が見えないくらい生えていれば可愛い、あるいは美しい。そうじゃなくて、まばらで、ちょろちょろ生えているのは見苦しい。そういうことなんではないか。いや、別にそうじゃなくて、もちろんこんなのは美意識だけの問題で機能的にどうとか、どっちが偉いとか、どうなると良くないとか、そんなんじゃないんだけど、一般に言われてる美意識を分析すると、そうなるんじゃないかと思うのであり、ここに虚心坦懐にそのむねを宣言するのであります。って、はあはあぜいぜい、誰に言い訳しているんだ俺は。

 えー、だから、ここで声を大にしていいたいんだけど、すね毛は一般的に好かれていない、それは承知しております。おりますが、それは一般に、スネ毛というのがまばらにちょろちょろ生えているのが原因ではありますまいかと。でもって、俺のスネをよく見てみれば、ほら、もうかなりなことになっていて、限りなく「みっしり」に近い状態なんじゃないかと思うわけだ。これはむしろ、犬の足に近い生え方じゃなかろうか。

 だからだ。私のスネ毛は、犬のようなものだと思っていただければ、ええと、見苦しくもなく、可愛がっていただけるのではないかと。いや、聞けってば、見苦しいから剃れなんてことは言わないで欲しいのでありますと。いや「スネ毛こそ俺のアイデンティティ」と思っているんではない。そんなこと思うかっ。あいや、ないのだが、私のスネ毛を見て、オバQよりは、犬に近いものと思って欲しいのでありまして。あ、そういえば、オバQって犬が嫌いだったよなあ。いや、全然関係ないんだけども。む、話をそらそうとしているのではありません。だから、剃らないって。剃らんと言ったら、剃りません。ええい、剃るんなら、俺を倒してから剃ってもらおうじゃないか。


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