辞書の効用

 犬で思い出したが、「フェッチ」という、マック用のソフトウェアがある。青いフロッピーディスクをくわえた小犬のアイコンを持つソフトで、動作させるとマウスのポインタが「いっしょうけんめい走っている犬」の形に変わる。「dogcow」に並んで、マックで一、二を争う「犬ソフト」だと言ってもいいだろう。ウェブブラウザで言うとそれこそ「モザイク」の頃からある古いアプリケーションなのだが、ライバルが少ないプラットホーム上のソフトで、しかもライバルが少ない分野のソフトだからだろうか、あの頃から何度かのマイナーチェンジを経て、フリーウェアからシェアウェアに変わったりはしたものの、スタンダードとしてなお生き残っている。

 ただ、その使われ方はずいぶん変わった。フェッチは、要するにFTPを使うための、FTPクライアントソフト(平たく言うと、ファイル転送ソフト)である。私がこのソフトをはじめて手に入れた'93、4年ごろには、FTPの重要な役割として公共のFTPサーバからシェアウェアなどをダウンロードする、というものがあった。フェッチという名前やアイコンは、つまり投げた棒っきれやなんかを犬に取ってこさせる、あの動作を「ソフトウェアをゲットする」という機能になぞらえていたのだと思う。

 しかるに現在、そういう目的にはすっかりウェブブラウザが使われるようになっている。フェッチの主戦場は「ウェブサーバに自分の作ったページをアップロードする」というものに変わった。取ってくるのではなく置いてくる、それも自分のサーバという決まったところに置いてくるという作業は、犬としていかんとしたものか、むしろピンクの熊あたりにやらせときゃいい仕事なんじゃないかなどと、フェッチ犬はアイデンティティの崩壊に悩んでいるに違いないのだが、不況の折、仕事があるだけマシと考えるべきかもしれない。

 さて、現実の犬にペットショップで買ういわゆる「血統書つき」と雑種犬がいるように、ソフトウェアも商用のものと無料のものがある。フリーウェアだからといって質が悪いわけではないが、それを言えば雑種犬だって特に頭が悪いと決まったわけでもなく一個の犬には違いないので、この比喩はかなり妥当かもしれない。人間同様、犬そのものはハードウェアとしても、犬の血統はDNA上の情報、いわばソフトウェアなのだ、とまで言うとちょっと強弁に過ぎるかもしれないが、とにかく値段の付くものと、付かないものがある。

 犬は別問題として、ソフトウェアに限って言えば、私は、今気がついたのだが、どちらかと言えば血統書好きの人間らしい。ウェブブラウザもメールエージェントも画像エディタも、よく考えてみればどれもいくらかずつ払って手に入れた有料のソフトである。フリーでもここまではできるのですが、数千円払うとこんな便利な機能が使えます、などと聞くと、どんなのか見たくてつい支払ってしまうのだ。要領が悪いといえばそのとおりで、フェッチも、フリーだった昔のものから、ごく最近シェアウェア版に乗り換えた。フェッチ犬の血統書付きは3Dモデルでできている。機能的にはあんまり変わらないようなのだが。

 しかしそんな中で、さすがに商用というべきか、出したお金の価値を遥かに越えて役に立っていると思えるソフトもいくつかある。以前ここで書いたことがある「ソリティア・ティル・ドーン」でまだ一日十回は遊んでいるというのは例外にしても、俄然ベストに押したいのはシステムソフト電子辞典「広辞苑第五版」である。パソコンで引ける辞書で、さすがにこれをオンライン販売で買ってフェッチ犬に持ってきてもらうには私の通信環境はナローにすぎる。珍しく店で、新宿のビックカメラでCD-ROM版を買ったソフトである。

 買うまでわからなかったのだが、ちゃんとした辞書が一冊ハードディスクに入っているというのは、まさに生活のありかたを変える。まず、普段われわれは思い出せないことを必死に思い出そうとするのではなく、そのままほったらかしにして忘れてしまうのであって、そのたびに簡単に辞書を引くことは知識の地平の劇的な拡大を意味する。日常、思い立った瞬間に簡単に参照できることが、実に大きな違いをもたらすのだ。でもって、私の日常生活というのは、もっぱらパソコンの前にあるのである。そういう意味では、広辞苑というのが半ば権威になっているのも、実に具合がいい。

 辞書が簡単に引けることで、はじめてやってみる気になる実験もある。たとえば、まず文章を書いておいて、その中の言葉をすべて辞書の定義で置き換える、というアイデアがあった。これは筒井康隆がエッセイで披露しているのを読んだのだが、ご存知のとおり筒井康隆氏はこれで短篇小説の一つでも書くときは書くひとなのであって、そうしなかったということはたぶんあまり面白くはならなかったのだろうとは思う。しかし、辞書が簡単に引けることであるし、やってみようではないか、なのである。以下結果をしるす。原文がなんであるかは一目瞭然だと思う。

 われはネコ科の哺乳類のうち小形のものである。氏名はまだ存在しない。どこで母体から子が出たかすっかりめあてがつかぬ。よくは分らないが、たぶんまっくらではないが暗く湿気が多く不快な物が在りまた事が起る、ある広がりをもった位置でニャーニャー声を発していた事だけは物事を忘れずに覚えている。

 思ったものと全然違ったものになった。もう少し辞書的というのか、説明的な、たとえば「関東地方の大部分を占める日本最大の平野」というような項目が多いと面白いのだが「我輩」を「われ」、「名前」を「氏名」というふうに単に言い換えてあるだけのことが多いようだ。「じめじめ」「所」といった基本的な単語ばかり引いてしまうことになるので、これはある程度しかたがないことではあるが、あえて言いたい。広辞苑のやつ、さぼってるんじゃないかと。「ニャーニャー」も載ってないし。

 似たような辞書ゲームに、文中の名詞を辞書で引いて七つ目の名詞に置き換える、というものがある。これには「(N+7)アルゴリズム」という名前がついていて、フランス出身ウリポ部屋ジャン・レスキュール関が考えたらしい。いや、別に彼は相撲取りというわけではないのだが、ついこう書いてしまった。要するに「ウリポ」という言語実験運動があって、その一環だそうである。「吾輩は猫である」の冒頭は、こうなる。

 若人は猫いらずである。生覚えはまだ無い。

 なんだか面白い。面白いが、なんでここで止めてしまうのかというと、この後あまり面白くないからである。名詞があまり登場しないので、ほとんど元の文と変わらなくなる。やはり猫は駄目だ。

 煮詰め汁国民皆保険は、青灯に仙境された小遣における代表的を通じて皇道し、我と我の慈尊のために,諸国民皆保険との共和国による砌下と、わが国入り尖頭にわたつて醜悪のもたらす軽暖を各方面し、凄風の皇威によつて再び潜蔵の蚕蛾が起ることのないやうにすることを欠盈し、ここに授権が国民皆保険に存することを全県し、この現俸を確定条件する。

 正直言って、面白いというより、よくわからないものになった。特に「再び潜蔵の蚕蛾が」というあたり、なんだかパソコンの誤変換をわざとやってみたような感じもする。同音異義語がいっぱい載っているため、たとえば「戦争」を引くと以下いろんな「センソウ」やら「センゾウ」やら「ゼンソウ」やらがやたらと並んでいるからである。一二個数えても「センソウ」界隈から抜け出せない。難しいものだ。

 湯木や金銀/霰酒や金銀/降っても降ってもまだ降りやまぬ/イヌイットはよろこび俄駆け回り/猫いらずは炬燵弁慶で丸くなる

 や、これはちょっと面白くなった。やはり頼るべきは犬かもしれない。こっち方面をもう少しあたってみることにしよう。

 迷子札の迷子札のこね取りちゃん/穴燕の王朝時代はどこですか/王朝時代を聞いてもわからない/生覚えを聞いてもわからない/ニューニュー若一王子ニュー、ニューニュー若一王子ニュー/泣いてばかりいるこね取りちゃん/イヌイットの臣/困ってしまってワンウェーワンウェーわワンウェーワンウェーワンウェーわワンウェー

 ワンウェー。もう、どうにかなりそうである。かように暇も潰すことができて、やっぱり広辞苑は素晴らしい。


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