星と星とをつないで作る「星座」というものを、最初に考えたのは「バビロニアの羊飼い」だという話を、なんとなくどこかで聞いたことがある。この真偽のほどは諸説あってあまり確かでないようだが、羊飼いには夜番があって、なにしろ番をする仕事であるので暇でヒマでしようがないうえに、羊を飼うような場所だから周りに灯などない。それで星座など考えたのだ、というストーリーにはなんとなく信憑性がある。私も、羊ではないが、中学生だったある一時期、毎晩のように飼い犬を散歩に連れて歩いたことがあって、このことを実感した。その犬を、わたしはひどく可愛がっていたのだが、それとは別に使い魔でもあるまいし犬というのは話し相手にならないので、ついつい空き時間が多くなり、星を見上げてしまうのである。
そうして見上げた冬の星座こそは、豪華という表現にふさわしい空だっただろう。故郷の暗い空に、盾代わりに毛皮を構えつつ棍棒を振り上げた大オリオン座の姿が、腰の短剣の連なりまでくっきりと、まず目に入る。このオリオンの左足の青いリゲルが、あの宝石のような昴を追いかける赤い星、牡牛座のアルデバランに、五角形の馭者座、底の浅いフライパンのような形の大犬座、明るい星と暗い星のただの二つの星に見える小犬座、同じくらいの明るさのただの二つの星に見える双子座、といったあたりとともに、ちょっと歪んだ六角形を作っている。このあたりは覚えやすくて、私も教科書の星図を道しるべに、すぐ見分けられるようになった。
今よりもさらに田舎だったそのころの私の生家の近所の夜空は、信じられないくらいに「深い」空だった。見慣れた星座の星の間に、そうと意識して見ないかぎり意識にのぼらない暗い星が存在しているのが見えて、さらによく目を凝らして見れば、その星と星の間にもっと暗い星が無数に連なっているのが見える。それはまさに「深い」という表現にぴったりの、遠い星ぼしなのだと思う。散歩の途中、私の犬が地上にあって、自分と自分の帝国との間についての何事かをなしている間に、私は星を見上げて、それはもう、いろいろなことを考えたものである。
宇宙の始まりは爆発の中にあった、と現在の宇宙論は語っている。遠くの星雲からの光の赤方偏移、宇宙の背景からやってくるわずかだが一様なマイクロ波の輻射、それに宇宙における水素やヘリウムの存在比といった証拠が、それを強く支持して他の説を寄せ付けないのだ。「ビッグバン」と芸のない名前で呼ばれるでかい爆発があって、それ以来宇宙は膨張を続けているらしい。
大きな爆発があってこの宇宙がここまで大きくなった、という話はいいとして、この先どうなるかについては、いろいろな意見がある。まずこれは、地上から投げ上げた石のようなものだ。石のスピードが遅いと、石はやがて遅くなって、地上に戻ってくる。しかし非常に速く投げることができれば、それはざっとプロ野球の速球派投手の球速の二百倍くらいということにあるのだが、その石は人工衛星になったり、飛び去ってしまったりする。すべては石の速さ次第であり、宇宙に関してもそうなのである。最初の爆発のエネルギーが大きければ宇宙はこのまま膨張を続ける。それほどでもなければ、星ぼしを互いに引きつける重力が勝って、やがてすべてがもとに、一点に戻ってくる。
宇宙が膨張しつづけるか、収縮に転じるか、このどちらが正しいかについては、宇宙にあとどれだけ知られていない物質が含まれているかという難しい問題になって、まだ決着はついていない。今のところ、定説としては、膨張し続けるという説が正しいことになっているのだと思う。
もしこれが正しければ宇宙の行く末は「熱的死」というものになるはずである。全部の星が燃料を使い果たして、静かに燃え尽きてゆく。だんだんと明るい星がなくなってゆき、ときおり爆発を起こすブラックホールのほかは光るものとてなくなり、それも間遠になってゆく。もう一方の説、収縮に転じた場合の、熱と爆発と炎の中すべてが一つの火の玉へと収縮する「ビッグクランチ」と比較すると、ずいぶん静かな、ゼンマイが尽きるような、終わりである。
中学生のころの私がどう考えたかは別にして、今の私は、なんとなく「ビッククランチ」のような華々しい終わり方をするはずがない、という気がしている。もとより証拠が集まっていなくてどっちだかわからない学説同士の正否について、どっちが正しそうだとか、自分はどっち派であるとか発言をするのは好き嫌いの問題であって、まったく科学的な態度とは言えないのだが、あえて言うならば、そう思うのだ。この「大西科学」なるサイトを開いてからの数年間、見守ってきたいくつかのページを見るだに、少なくとも個人のホームページの終わり方としては「熱的死」が圧倒的に多いと思うのである。ホームページに限らない。ものごとは一般に静かに静かに終わってゆくように思う。
さて、以下余談で、しかも個人的な事情で恐縮なのだが、本日未明、私に娘が誕生した。ここ数回、犬についていろいろと書いてきたのは、うちあけた話この安産を祈願してのものだったのだが、ともあれ、無事産まれたので犬シリーズもここでおしまいとなる。彼女が生まれてくるにあたって最初に書いた文章が宇宙の終焉などという話で縁起がいいのかどうかよくわからないのだが、ともあれ、彼女にとっての宇宙はまさに今朝始まったのだと考えると、身の引き締まるような思いである。願わくば、彼女の内部にこれから作られる宇宙が深く、広く、実り多いものでありますように。