取っ手をお持ち下さい

 私が大学の研究室にいたころ、先生から研究分野に関するある噂を聞いた。なかば笑い話としてこの話を持ち出されたのだと思うが、我々のような研究をしていると、研究者の健康が、微妙に、ひそやかに害されているというものである。その証拠として、子供を作ると女児しか生まれないのだ。そう言われてみると、同じ分野で研究をしている他の大学の先生や研究所の研究員のひとびとに、最近あいついで子供が産まれていて、どの子も女の子であった。ばかな、とは思うものの、思い出してみれば、あの家もあの家も確かに女の子だし、あの人は男の子だと言っていたが例外的な人なのかもしれない(あんまり仕事をしていないようであるし)。等々と考えてゆくと、もしかしたら本当にそうなんじゃないか、と思ってしまうのである。

 と、以上のような話を書くと、それは私のところの話かと思う人が、実は多いのではないだろうか。そのころの私の研究分野は原子核物理学で、放射性元素や重粒子線といった、いわゆる「ホウシャノー」を扱う実験現場だった。現場に携わる研究者達が、日々放射線被曝の危険と隣り合わせで研究を行っている分野である。もちろん、それぞれに十分な知識を持った上で、厳重な遮蔽と一定の安全上の取り決めが守られた環境で作業はなされているのだし、経験に照らして考えても周囲で事故など起こっておらず、安全だとわかってはいるのだが、目に見えないものだからして心の底ではやっぱりホウシャノーは怖い(また、実際無茶をやらかせば危険なのであって、そうやって恐れておくべきものでもある)。子供が生まれないのではなくて「女の子しか生まれない」という中途半端な不健康さというものが、あるかもしれん、と思うわけである。

 つまり、こういう職場だからこそ笑い話としてもこんな「伝説」が生まれるのだ、と当時の私は思っていたのだが、後に知ったことによれば、似たような噂は非常に広い範囲にわたって流布していて、素粒子実験から、航空宇宙関連業、一部の物性物理学、無機有機工業化学に生物学、医学薬学、プログラマーなどコンピューター技術者から発電所や送電関係の業務に至るまで、自分の職業のカテゴリの話としてそれぞれにまことしやかに語られているものらしい。放射線を扱う分野が多いのは確かだが、そればかりではなく高周波や化学物質の害で、というストーリーもあって、健康を害することへの不安がこういう形で語られるのは面白い。どれも「女の子しかできない」であってその反対でないのは、確かに男の赤ちゃんよりも女の赤ちゃんのほうがちょっと丈夫だから、いちおう納得がゆく。ただしこの話は、染色体の都合上その研究者が男性の場合だけに成り立つ話であって、その点ちょっと性差別的な感じがなきにしもあらず、である。

 いや、実はこんな話をしようと思っていたのではなかった。以上はなぜか筆が滑ってしまったのであって、ここで話ががらっと変わってしまうのである。そんなふうな、いや、どんなふうだかわからないだろうが、まあそんなふうな原子核物理学をホロホロとやっていた私なのだが、研究対象の原子核というものについて、よく「取っ手の数」ということを考えてみることがあった。

 原子核を研究すると一口に言うが、なにしろ相手は小さい。よく使われるタトエで、リンゴを地球の大きさまで拡大したとしたら、リンゴに含まれていた原子がやっとリンゴの大きさになる、というものがある。これは原子の大きさの話だが、原子「核」というのは、そのさらに内側にあってもっと小さいものである。原子がリンゴだとして、中のタネよりももっと小さい。原子の大きさを甲子園球場に拡大して、やっとパチンコ玉程度という大きさなのである。原子リンゴの中に入っている原子核は、たぶん気が付かないで食べてしまうくらいの大きさではないかと思う。よくこれほど小さな物を、私が設計して工作して組み立てて、しかも一部間に合わなくてガムテープで貼っつけてやっと形になっているような実験器具で研究できるものだ、と普通は考える。私自身そう思わないでもなかったので当然だ。

 それはもちろん「取っ手」があるからなのである。原子核にはいくつかの性質があって、質量(重さ)、電荷(もっている電気量)、スピンやパリティ、寿命(不安定原子核の場合)のほか、崩壊するとしてどういうパターンで崩壊するか、また磁気モーメント(原子核のもっている磁気のようなもの)や電気四重極モーメント(原子核の中の電荷の分布)といった、高次の構造がある。詳しくは書かないが、これが原子核の周りの磁場や電場とやりとりをするので、そういう取っかかりを使って、私たちは原子核を曲げたり止めたりひっくり返したりして調べることができる。これを、原子核に長い取っ手がついていて、それを触っているようなイメージで、私は捉えていた。目に見えていないものを研究するのだから難しいのは確かだが、幸いにして長く伸びた取っ手をマジックハンドのように使って、いろいろと操作ができるわけである。具体的には、やっていることは加速器のビームコースのどんづまりに磁場やら電場やらをかけてごちゃごちゃやっているだけなのだが、それでちゃんと原子核とやりとりができるというわけなのであった。

 これが素粒子物理学になると、これは原子核よりもずっと対象として小さな分野を扱う学問だが、おそらく取っ手の数はちょっと減る。現実問題として、巨大加速器でぱっと作り出されて、次の瞬間ぱっと崩壊する素粒子を研究するために使える「取っ手」は、電荷と質量と崩壊のパターンくらいしかないのではないかと思う。主に寿命の差異がもたらす違いなのだが、原子核よりはいくぶん研究しづらくなっている。逆に、科学の階層構造を反対方向に歩いてゆくと、どんどん研究手段が増えていくようで、原子物理学、物性物理学を通り越して化学になると、対象を見分ける手段はさまざまな試薬にどういう条件下でどう反応するかという形で、魔法使いの呪文の書のような大冊にまとめられるほどである。それだけいろいろな「取っ手」があり、多数の研究手段があるということなのだろう。それにくらべて物理学の底のほうの研究では、ずいぶん単純なことをやっているとよく思う。実験技術の秘術を尽くすような化学生物分野に比べて、素粒子の研究は単純に「いかにデカい加速器を使うか」という力勝負になると言っても、決して過言ではない。

 こういう「取っ手の数」という考え方は私の独自のものでもないようで、「ブラックホールには毛が三本しかない」という話がちょくちょく出てくる。この「毛」とは、ブラックホールには定義できる物理量が三つしかない、ということである。質量と、電荷と、角運動量(回る速さ、のようなもの)で、それ以外のいろんな性質はブラックホールの場合事象の地平のむこうがわに隠れてしまってわからない。たとえば地球とそっくり同じ物を作るには精密な世界地図やどこにどんなものが埋まっているか、どこにどんな人がいてどういう生活を送っているか、というようにものすごく大量の情報が必要なのだが、ブラックホールは数字を三つ書けばまったく同じ物を注文できる、ということなのである。これを表現して「毛」とするのは面白い。考えてみれば「取っ手」のように「毛」もつかんで曲げたり止めたりひっくり返したりできるので、ちょっと痛そうだが、考え方としては同じことであり、こっちのほうがいい表現かもしれない。条件によって生えたり抜けたりするのだし、毛がなくてつるっとしていると、手が出ないわけである。

 ところで、赤ちゃんができたよと人に話をすると、聞かれるのは決まって二つの事柄である、ということを最近知った。「性別はどっちか」「体重はいくらだったか」ということである。この質問はもう決まりきっているので「で、どっちだった」「いくらだった」くらいまでに簡略化されている。私など、慣れていないものだから初め「どっちって、なにが」などとつい聞き返してしまうのだが、考えてみると、まだ名前も決まっていない新生児を定義する要素として、性別と体重のほかにはほとんど何もないのである。

 これから名前が付き、成長するに連れて、いつ生まれて今何歳か、なにができてなにができないか、算数が得意か国語が得意か、逆上がりができるかどうか一輪車はどうか、ハンバーグが好きか木の芽和えのほうが好みか、電話番号は何番かメールアドレスはどうか、恋人はいるのかイナイ歴は何年かなどといったいろいろな要素が加わって行くのだとは思うが、今はまだ、毛はたった二本、ちょろっと生えているだけなのである。本当はそうでもないのだろうが、これはブラックホールや素粒子よりも簡単である。人生はこれから、というところで、これからもしゃもしゃといろんな毛やら取っ手やらが生えてくるかと思うと、なんだか怖くもあるのであった。


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