一度ならずここで触れたことがある概念ではあるが、今回の話に入る前に「おかずパワー」という用語について、もう一度解説せねばならない。「おかずパワー」は、ある「おかず」がどれだけご飯をおいしく食べる能力を持っているか、即ち「おかずとしてのパワー」を数値化したものである。詳しく言うと、一人前のおかずで一膳のご飯を食べることができるおかずを、おかずパワー1とする。単位は「エムボマ」で、たとえば「私にとってハンバーグは2.5エムボマだがチーズハンバーグはパイナップルのせいで0.7エムボマ」といった感じで表現する。これがおかずパワーである。どこということはなく以前に書いたことと食い違いがあるような気がするが、そのへんはお互い大人であり追求は止めておこう。
思い返せば、なんだかむやみに長かった大学生時代、私は毎日のように大学生協の食堂で昼ご飯を食べていた。定食三六〇円、味や価格に不満はなかったとはいえ、やはり大量生産大量消費をもって旨とする学生食堂略して学食であるから、メニューは非常に限られたものになってしまう。私はどちらかといえば「エサうまい」派、つまり毎日まいにち同じものを同じように食べていてもあまり不満なく生きてゆける種類の人間なのだが、それでも長い間大学にいると、一通りいろいろなメニューを試したくなってくる。
それで気が付いたことがある。実は私はトンカツが好きだが、いや今さら「実は」ってことはないが、いろいろと食べ比べた結果、チキンカツだろうがエビフライだろうが白身魚のフライだろうが、おかずパワーとしてはそんなに変わらない、ということになったのである。メニューを試すと言ってもそこは学生食堂、ご飯や味噌汁、付け合せのキャベツやポテトサラダはともかくとして、揚げ方もソースもお互いまったく同じで、メニュー間で違うのはコロモの内側、中身だけなのだが、それだけに「できるだけ同じ条件でやるべし」という実験の基本は守られていたと言えるのかもしれない。ともかく、チキンカツだって実にうまく、同じようにご飯がバクバク食べられるのであった。フライ盛り合わせが実に幸せなのであった。
なんだか書いていてキーボードが油っぽくなってきたが、ここでの疑問は、おかずパワー測定実験の結果が以上のようなものであるなら、いったいに「私が好物はトンカツである」と胸を張って言うことができるのか、ということである。他のフライ物を試してみて、そっちも同じように好きなのだから「トンカツとチキンカツとエビフライと白身魚フライとコロッケとアジフライが好きだ」と言うほうがいいのではないか。そして、もっと一般化して言うならば、私の好きなものは実は「フライのコロモ」あるいは「フライのソース」である、ということになるのではあるまいか。「なんでも揚げればうまくなる」説であり、そういえばテンプラはそもそもそういう食べ物である。
コロモが好きだなどと、なんだかトンカツが好きと書くよりもっと罪深いことを書いてしまったような気がするが、あるいは、世の中は中身よりも味付けが全てだ、ということになるのかもしれない。以前アメリカにちょっと行ったときに「醤油をかけたらなんでもうまくなる」「即ちアメリカに足りないものは醤油である」という結論を出したことがあるが、おかずパワーという指数そのものが、肉なり野菜なりの質よりも、むしろ味付けや塩辛さという、いわば枝葉末節のところで決まってしまう不安定な数字であることは確かである。要するに、味付けなのだ。然り、味の素は「おいしくなるから不思議だな」であり、ポテトチップスの「ステーキ味」はステーキソース味なのである。
高校生のときに、化学部の部活動で「バナナの香り」というものを作った。生命そのものと同様、人間の手では容易作れそうにない「香り」などというものが、こともあろうに私の手で十数分の作業で作れてしまうことに驚いたものだが「ファストフードが世界を食いつくす」という本を読んで知ったところによれば、大体において現在の食べ物(フライドポテトやらなにやら)にはこういう感じで実験室で合成される「香料」が使われているのだそうである。さまざまな旨味、肉の風味を付けて、ただのイモのフライをあのようにおいしくしているのだ。
しかしもちろん、それでいいのだとは思う。行列のできるラーメン店は、素材の味をそのまんま客に味わわせることをもって皆が並ぶのではない。コカコーラは、ただの砂糖水を売って2002FIFAワールドカップTMのオフィシャルパートナーになれたわけではない。そして、ステーキは肉質と焼き方がすべてではないのだ。思えば、私の感じたアメリカの一番あかんたれな所はそこではないか。いわゆる「自然」そのものではない複雑微妙な味を精緻なブレンドと巧緻な手順でもって作り出す、そこのところに敬意が払われるのである。
実験室で作られるのが味の源として自然ではない、というのはそのとおりである。しかし、それを言えばラーメンスープやステーキソースの味だって、自然そのものの味では決してない。どちらもある種の「合成」の産物であり、程度の差でしかないのだ。それならば、実験室での合成のほうが、社会全体の福祉という意味でずっと格が上ではないかとさえ思う。科学の手順にのっとって味なり香りなりが作られるならば、それは誰がいつやっても同じように完成するものであり、オヤジが風邪を引くと味が変わるラーメン屋よりも、手法として安定しているぶん広く人類の利益になるのだ。コカコーラの社長が死んでも、コカコーラの味は変わらないのである(コカコーラが気を変えなければ)。
結局、科学こそがこのようなトンカツをもたらしてくれたのなら、私は科学のほうがいいと思う。豚肉を煮干しで煮ただけものでなく、トンカツを食べられる時代に生まれて、本当に良かったと思っているのだ。すなわち、味覚の神は、細部にやどる。一生懸命考えて工夫して、その末に作られたという意味で、科学も、おそらく同じ所にやどっているのである。