廃虚の夏

 自動車での出張先で立ち寄ったレストランで、「そのこと」に気が付くまでしばらくかかった。車を降りて、もう一度このドライブイン・レストランの建物をしげしげと眺めて、はじめて天窓のガラスが全て割られていることに気が付いたのだ。つまり、ここはもう、営業していない。しかもつぶれてしまってからかなり経っているようだ。

「へんじがない。ただのしかばねのようだ」
と、独り言を言って私は、しばらく自分の車の横で立っていた。出張の用事が思いのほか早く済んで、自分で自分にお祝いをしたくなって、それで遅めの昼食をとるためにこうしてレストランに車を入れてみたら、こうである。確かに建物自体や看板はおおむね綺麗なのだが、どうして気が付かなかったのだろう。夏の日差し眩しい駐車場で、私は意味もなく、目をこすった。

 気が付いてみれば正しく廃墟である。あたりを見まわしただけでも、駐車場のあちらこちらにかたまって木片が放置してあるし、駐車場に停めてあるように見えたほかの自動車も、よく見れば違法廃棄されたか、あるいは盗難車のなれの果てでもあるらしい。ナンバープレートはないわ、タイヤは外されるわ、一台など、どうやったのか、後部座席のシートが丸ごと無くなっている。それでも一応、それぞれにきちんと駐車の枠の中に停めてあるというのが、なんだかおかしい。

 照り付ける太陽がワイシャツの長袖に暑く、私は立ったまま、ネクタイをもう少し緩めた。駐車場のアスファルトがちりちりに炒りあげられて、この世紀末的な風景を、なぜかむしろ健康的なものに見せている。日光で消毒したようなものだ。ここで、そんなことをしてもしかたがないのだが、私はゆっくりとレストランの建物のほうに歩いて行った。運転席から建物を見た限りでは気が付かなかったが、建物の窓、本来ならば客席が見えるはずの窓にはすべて厚いカーテンがかかっていて、中はうかがえない。窓ガラスにはステーキセットがいくらいくら、生ビールがいくらいくら、ランチが安くて冷やし中華も始めました、などと張り紙が貼られて、まるで空元気を出しているようだ。この窓自体は埃がたまってはいるが無傷で、仮に天窓の惨状が誰かが割った結果だとして、どうしてこちらには手を出さなかったのか、不思議である。

 私はなんとなく、昔のことを思い出していた。大学生のころ、よく悠里と二人で、こういうレストランに食事に来た。一番贅沢な料理が千五百円くらいの、高級ではまったくない、身の丈に合ったドライブインレストラン。あるとき、ささいなことで喧嘩をして、思い出すだにあれはささいなことで、これで二人は終わりという区切りもなく、なんとなく疎遠になったのだが、三年くらい前だろうか。風のうわさで、交通事故だかなんだかで彼女が亡くなったという話を聞いたときには、なんだか世界を構築する基本的な、変わるべきでない要素の一つがなくなってしまったような気がした。変わらないものなど、何もないのだ。彼女のことでは罪悪感もなにもないのだが、ただ、自分がひどく年老いたような、生きるべきでない人生の残りをただ費やしているような、そんな宙ぶらりんな感じを味わったものだ。といって別に真剣に生と死について考えたわけでもない。それからもう、三度目の夏である。

 入り口にやってきた。強烈な日光が大きい庇でさえぎられると、ほっとして、どっと汗が流れだしてきた。ただの日陰というよりは、肌に押しつけられていた針山がすっと離れたような、そんな実体感がある。私は、手の甲で汗をぬぐうと、おそるおそる入り口のガラス戸から中を覗いてみた。こちらにはカーテンはかかっていない。薄暗い内部には、ウェイターの案内を待つ、待合室があって、並べられた丸椅子に向かい合って料理のサンプルケースがある。ケースの中にはスパゲティやハンバーグやライスやサラダやコーヒーフロートの模型が、もう来ない客を待っている。これを見る限りでは、崩壊は何の前触れもなく、まったく急速に訪れたらしい。壁の伝言板にはキャンペーンの張り紙が貼られ、特別料理のお得さ加減を控えめに主張しつづけている。レジの横に置かれた観葉植物がすっかり枯れはてて、ただ灰色に見える。これを持ち出す暇もなかったのだろうか、わからない。普通、扉に貼られているはずの、営業停止のお知らせも、見当たらないのである。

 ガラス扉の前に立ったまま、なんとなく辺りを見回すと、扉の右側の壁の、少し高いところに、二つ、明かり取りかなにかの役割を果たすのだろう、小さ目の窓があった。そこにあったはずのガラスはもうなく、黒い眼窩のように枠だけが残っている。眼窩、という言葉を自分で思いついて、急にぞっとして、私は少しわれに返った。そもそも、何をやっているのだろう、私は。泥棒と間違われても、しかたがないではないか。私は、ガラスに触れた指先の感覚を拭い去るようにズボンの尻にこすりつけると、車に戻ってここを離れ、牛丼屋でも探そう、と半分だけ振り返る。と、ふと思い付いて、そこを離れる前に、なんとなく、本当になんとなく、入り口の取っ手に指をかけて、引っ張ってみた。

 扉は、何の手ごたえもなく、私を迎え入れるように開いた。外の暑さを忘れるような、ひやりとした風が中から吹き出してきて、私を包み込む。外の日差しに目を眩まされたまま、一歩店の中に踏み込んだ私は、たちまち目が慣れて、中の様子がわかるようになった。五歳くらいの男の子を連れた家族が一組、待合室で順番を待っている。男の子が食い入るように見ているサンプルケースの料理に、私も一瞬目を奪われながら、立ち尽くす。音もなく現れたウェイターに、自分の名前を告げると、店の奥、窓際の席を案内された。

 そこに、こちら向きに腰掛けた悠里が待っていた。私は慌てて、ウェイターの手前恥ずかしかったが、手を挙げて言った。
「すまんすまん、なんだか遅れてしまった」
 クリーム色のミニスカート、白い半袖のブラウスの上に、寒いのか、ショールを羽織った悠里は、私を認め、にこと笑う。良かった。怒ってはいないようだ。
「うんん、だいじょぶ。まだ料理頼んでないからね。飲む?」
と、一人で飲んでいたらしい、赤ワインのグラスを少し挙げてみせる。
「ああ、そうだね。ビール、と言いたいところだけど、ま、ワインでいいか。冷房ちょっと効き過ぎかもな」
「そうね」
 腰掛けたわたしの前にグラスが置かれ、デキャンタから赤いワインが注がれる。窓に貼られた薄いフィルターを通して、夏の日差しが、夢のようにぼんやりとかすんで遠い。その窓の「冷やし中華始めました」の張り紙が、なんだかひどく場違いで、しかし不思議な既視感がある。
「ところで、知ってる、宮内君の話」
「いや、パチンコ屋でバイトしてるんだっけ」
「ん、それがね」
 悠里といつものように馬鹿な話をはじめながら、これからずっと、こういう日々が続くんだ、と唐突にそんなことを思って、私は嬉しくなった。そうだ、何も変わらない日々が、これからもずっと続くに違いない。


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