「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」は誤解されている、という話を以前誰かに聞いたことがある。普通の、世間一般での解釈は「先生と呼ばれて喜んでいるような馬鹿では(私は)ありません」あるいは「先生と呼ばれるようになるためには相当馬鹿でないといけないが、私はそうではありません」だと思う。つづめて言えば「先生は馬鹿である」なのだが、彼の主張するところによれば、実はこの川柳は「あの人は先生と呼ばれているくらいだから、馬鹿じゃないんだよ」なのだ。つまり「先生は馬鹿ではない」である。これが真実なのかそれともこの人の思い込みなのか、調べたのだがよくわからなかった。有名な「情けは人のためならず」がそうであるように、使われているうちに意味が逆転すること自体は、確かによくあることだ。
ただ「情けは人に」の場合は、なんだかんだ言っても、もとの意味と新しい意味の両方にある程度の含蓄がある。意味を取り違えられても依然としてことわざとして一定の価値があるわけだが、こういう方向で考えてみると、「先生偉い」説はやっぱり少々疑わしい。先生は元来尊称だから、「先生は馬鹿ではない」というのは、つまり「老人は若くない」と同じことで、当たり前のことを当たり前に言っているだけである。これではあまりにも魅力が薄い。だからして、もし仮にこれがほんとうに最初は「先生は馬鹿ではない」と発せられた言葉なのだとしても、今の使い方を「誤っている」とは言えないだろうと思う。誤って伝えられて元の意味が台無しになったというよりは、むしろ「先生と呼ばれて喜ぶのは馬鹿」と解釈された時点で、はじめてこの川柳は完成されたと言うべきなのである。言ってみれば、最初の発明者はたいして偉くない。解釈者の才能こそがいつまでも続く輝きをこの川柳の中に作り出したのだ。
さて「出る杭は打たれる」である。上の二つの例のように意味が反対になるわけではないが、これも解釈に困ることわざで、「打たれた人」が自分のことを自嘲的に言うものなのか、「打った人」が小賢しい出る杭をあざけって言うことなのか、発せられた立場をどう考えるかで微妙に味わいが異なる。人間関係の局外に立って、ただ世界の成り立ちを説明するだけのものであり、「出る杭打つべからず」とか「出る杭打つべし」のような、明快な指針を与えてはくれないのだ。出る杭は打たれるのは事実として、それが悪いことだからやめるべきだと言っているのか、しかたないことだからうまく付きあってゆこうというのか、わからないので、深く考えると不安になる。
不安にはなるが、時はさかのぼって一九八五年、世間知らずで人間に疎い、小賢しく生意気な中学生であったわたしにとって、このことわざは完全に前者の意味だった。「出る杭(オレ)は打たれている(しかしそんな世の中は間違っている)」なのだ。こう書いただけで「彼」が主人公には不向きな、感情移入しにくいキャラクターであることがなんとなく想像できるが、そう思った理由が「生徒会役員選挙の立候補者に選ばれてしまったから」ということなので、なおさらこんな少年は、早めに宇宙軍にでも入れて一人前の機動歩兵に鍛えてもらったほうが地球連邦の未来の為である。
しかし当時は宇宙軍はなかったので、わたしはその気持ちを保ったまま、生徒会役員選挙に臨むことになった。「生徒会役員選挙」というのは、要するに、この中学における来年の生徒会長や、副会長、さらには会計とか書記を選ぶための選挙である。一年生と二年生の生徒たちの中から、使命感に燃える候補者がたくさん出て、そういう立候補者の間で生徒会長の席が争われ、投票が行われる。と、そういう建前はたてまえであるところの制度だが、現実にはそんな群雄割拠英雄伝説なことはあまりない。まず各クラス内で適当な人間を強制的に「立候補」させるための投票が行われ、そうして選ばれた各クラス男女一名ずつの立候補者が選挙戦を闘うのが通例だった。生徒会長の座は、あまり人気のあるものではなかったのだ。
そして、わたしがクラスの立候補者に選ばれたのは、まったくの陰謀だった。誰もが面倒で、できればやりたくないと思っていた立候補予定者クラス内選挙のとき、投票用紙が配られ、誰の名前を書こうかと教室が静まり返ったその瞬間、突然誰かがぼそりと、わたしの名前をつぶやいたのだ。
「イサオ」
こんな感じである。やってみるとわかるが、これは逃れようがない恐ろしい罠だ。票が分かれるのでたいていは決選投票が必要になるクラス内の投票が、このときばかりは一遍でわたしに集中した。なんといっていいのかよく分からなかったが、とにかく騙し討ちを喰らったわたしは慌てて抗議の声を挙げ、再投票を求めたのだが、しかしこれは、落ち着いて考えてみれば再投票したからといってどうなるものでもない。自分は候補から免れている学級委員長は快く抗議を認めてくれたものの、結局わたしは「ほぞ」の味を二度噛み締めることになっただけで、その晩日記帳に「出る杭は打たれる」と書き記したのだった。日記には「どうしてくれるんだ」などと書いてもいるのだが、この言葉はいったい誰に向けて書かれたものなのだろう。この世界のなりたちへの呪詛の言葉でもあったろうか。
さて、ここに鹿島スミ子がいる。髪をおかっぱにし、厚めの眼鏡をかけた背の低いスミ子は、クラスでは普段目立たない感じの少女である。わたしがいささか分不相応な「打たれた杭の気持ち」になっていたちょうどその時、スミ子は、すくなくとも外見はなんらの動揺も見せず、軽く肩をすくめただけでこの大きな波をやり過ごした。つまり、クラスから出ることになる二人の立候補者、2−Cが選出した生徒会役員候補のうち、わたしでないほうの一人が彼女なのだった。当時は気にもとめなかったわたしだが、いま、彼我を比べてみて、この大きな違いには赤面するほかない。やはり中学生くらいの段階では、女性のほうがずっと大人だという説は本当だと思う。
実状はどうあれ、建前としては、二人は「立候補者」なので、積極的に選挙活動をしなければならない。幾人か、クラスの暇な人で作られた「選挙対策委員会」のようなものが支援はしてくれるのだが、基本的には自分たちで、立会演説会の原稿を書き、スピーチの練習や応援演説のパフォーマンスの打ち合わせなんかもするのだ。選挙日より前に行う最も重要な選挙活動は、この中学の場合「ポスター貼り」だった。決められた枚数のポスターを、自作し、校内に貼って歩いて、他クラスの生徒に自分の名を売るのである。わたしとスミ子と、それから手伝ってくれる五人ほどの仲間は、放課後の教室の隅で机を寄せ合って、わたしたちを推薦するポスターを作り始めた。
「あの。あのね、それなんだけど…」
ある放課後。ポスターを描いているわたしの後ろで、少し顔色をうかがうような声で、そう言ったのはスミ子だった。わたしは、机から目を上げ、振り返った。もしや、と思ったのだが、彼女が肩越しに覗き込んで見ているのは、やっぱりわたしの手元だった。2−Cの選挙ポスター、八ツ切りの画用紙に二人の名前と投票を求める文句が、大宇宙をバックに書かれている。どうして宇宙なのかというと、黒地に星を描けばいいので楽なのである。わたしは、なにか文句があるのか、という目でスミ子の目を見返した。こっちは、好きでやってんじゃないんだ。
「なに、鹿島さん」
「駄目だと思うのよ」
今度ははっきりと、スミ子はそう言いきった。
「だから何が」
「その『よろしくおねがいします』って書いてあるのは、意味がないと思う。なにをよろしくするのか、わからないもん」
「え、はぁ。そうかな」
わたしは自分の書いたポスターをまじまじと見つめた。なるほど、言われてみると「よろしくお願いします」とだけ書いたのでは、なにがなんだかわからない。と、いや、思わず同意してしまったが、そんなことはない。これは貼られるシーズンや場所からして選挙ポスターなのであって、だからして「よろしくお願いする」のは選挙の票に決まっている。第一、本物の政治家たちがやっている、本物の選挙活動だって、ひたすら「お願いする」だけではないか。それと同じで、どこがいけないのだろう。スミ子は首を振って、ついにこっちを真っ直ぐに見つめると、言った。
「とにかくね、こう書こう。『投票よろしくお願いします』って」
思えば、見かけにそぐわない、そういう精神的な頑健さこそ、わたしがついに望んでも得られなかった人格であり、彼女をそもそもクラスの立候補者に選び、さらにのちには副会長に選出した「正しい資質」というものだったのかもしれない。わたしの方はというと、ちゃんとポスターを書き直して「投票をお願い」したかいもなく、その数日後に行われた、生徒会役員選挙には落ちてしまった。「生徒会長なんか絶対にやりたくない」と思っていたわりには、わたしはかなり落ち込んだのだったが、これが正しい「出る杭は打たれる」の例になるかどうか、選出されるのと落選するのと、どちらが「打たれる」になるのかという、そんな基本的なことからして、わたしにはよくわからない。
しかし、少なくとも、わたしはその後ずっと、今に至るまで「何をよろしくお願いするのか」「なにが駄目だと思うのか」といったことについて、考えつづけているような気がする。たとえば、電話をかけて、取り次ぎを依頼する。「鈴木さんいらっしゃいますでしょうか」と電話の向こうに告げてから、思うのである。いるかどうか確かめて、それでどうなのか。「いらっしゃいましたら取次ぎをお願いします」と言わねばならないのではないかと。すると相手が応える。「いま鈴木は席をはずしておりまして」。で、それが何なのか、「はずしておりまして、取り次ぐことはできません」ではないか。そういうとき、わたしはいつも、スミ子さんが肩越しに覗き込んでいるような気がする。安易な省略をせずに、最後まで言い切らねば彼女に笑われるような気がするのだ。そういう意味においては、わたしはこの選挙で、少し成長したのではないかと、恥ずかしながら思う。杭はすこしだけ、叩かれることで背が伸びた。そうであったらいいのだが。
それから、あと一つ。後になって考えてみると、現実の政治家たちだって、必ずしも宣伝カーで走り回っているだけではない。確かに中学生にはそう見えたかもしれないが、ひたすらうるさく「よろしくお願いする」だけではなくて、しかるべき場所では、思いのほかちゃんと公約を掲げ、政策を訴えているのだ。政治家だって楽な仕事ではない。やはり、先生と呼ばれるだけのことは、あるのかもしれないとも、少し思ったりもする。