文章の書き方として、普通の本や新聞などの作法をそのままウェブ上に持ってくると、読む時に少し疲れるような気がする。どれも同じように段落ごとに改行して行頭1文字あけて、という形で書かれているとして、ウェブブラウザで読む場合に限って読みづらく、どこまで読んだか見失いやすいのである。縦書きと横書きの差、一列の文字数の差、といった要因もあると思うが、ページのスクロールの存在も大きいと思う。本を読んでいて、ふと視線を壁の時計にやってから続きを読むような場合、我々は開いているページのだいたいどのあたりを読んでいるかということを、実際かなり適当ではあるが、覚えているものである。ページのはじからどのくらいかを把握しているのであって、これがあるから行末での折り返しで混乱しにくいのだ。しかし、パソコンの画面に表示された文章をスクロールして読む場合にはそうはいかない。ホイールつきマウスを使っている場合はまだしもだが、ページの端などというものはないし、画面がぱっと切り替わると、この物理的な把握がどうしようもなく混乱してしまう。どこを読んでいたか見失い、また一ページが広いので端から何行目かが見ただけでは判断できないのである。私がここなどに文章を書く時には適当に段落分けをして、しかも段落ごとにただ改行するのではなく一行空ける習慣にしているのだが、それには上記のような問題を避ける意図が一応ある。ぱっと見た目大きな段落が固まりとして見えて、その何行目かを直感的に把握できるなら、まだしも読みやすくなると思うのだ。どうだろうか。わからないがつまり今回は逆をやってみてどんなに読みにくいか考えてみるのも貴重な体験ではないかと思い付いて、改行を入れないで書いているわけである。深い意味はなく適当な思い付きである。テキトーだ。ところで、適当で思い出したが適当という語は本来、適切な、ちょうどよいという意味で用いられる言葉で現在もそのように用いられているが、一方で「適当に済ませる」というふうにいいかげん、必要最小限といった意味に適当に用いられていることも多い。このように適当が適当な意味に使われるようになってしまった原因は容易に想像できるが、たとえば「部長、この苦情なんですがどういう風に処理しますか」「え、それかね。うー、適当でいいよ適当で、がはは」「て、適当ですか。ははあ。はいはい。ではこっちも適当でいいですね部長」「君、わかっとるじゃないかそうだよ適当にな。適当に」「はい、適当にやります。テキトーに。うひひひ」「がははは」とかなり適当だが、こういうやり取りが行われ、繰り返されるうちに適当が本当の適当ではなくテキトーな意味に使われるようになってしまったのではないかと思う。これは必ずしも適当なことではなく本文章のように適当に二つの意味があることで困ることも多い。しかし、適当な意味に適当を使いはじめた人々というのはそもそも人間の作りからして適当な人々なのであり、適当をモットーとする人間が適当という語の本来の意味について深く反省することは、なにしろ適当に人生を生きている人々っぽいのでまずありえないのである。と、ここまで書いて思ったのだが、適当適当と書いていると、だんだん適当という意味がなんだかわからなくなってきた。いや適当に二つの意味、適切といいかげんがあることはなんとか理解していて、しかもあえて混同するように適当に書いているので読んでいるあなたがわからなくなるのは当然として、しかし書いている私までが混乱してはしようがないのだが、私は私であまりにも適当適当とそればっかり書いていてしかもそれなりに読み返して推敲したりもしていてその上改行がないので読みにくくってしかたがなくモニターに向けて目をくっつけるようにして読んでいるので適当という文字自体がなんだか適当と読むべき物なのかどうかわからなくなっているのだ。これは適当という語ではなく文字そのものの話で、読んでいるあなたと私とのハンディキャップを埋めてもらうために適当で申し訳ないのだがまず三十秒は適当という文字を眺めて欲しい。既にやってくださっているかもしれないがモニタに向かって目を近づけていただけると適当かと思うし、その際適当について適当に考えて下さるとなお適当かと思う。ではこれでどうぞ→「適当」。どうだろうか。以下あなたが本当に三十秒見てくださったと仮定して話を続けるが、果たして適当はこの字で良かったのだろうかなどという根源的な疑問が湧いてこないだろうか。特に「当」の字は簡単であるだけに危ない。適当のほか本当とか当選とか当店とか当然などと並べて書くとだんだん変な気分になってきて、カタカナのヨを発見したり雪印の雪のことを思い出したりそういえば当の字は人の顔に似ているなと思い始めたらもう駄目である。目をつりあげたオバQもどきが適当の後ろのほうから仏頂面をして適のほうを眺めているようにしか見えず、適当という字は意味を失って一枚の絵となる。ふだん適当を適当に見ていた我々には適当にこのような深い形象が隠れているとは気付かなくてこの突如開けた適当に関する視界に驚きを覚えたりするのだが、これはゲシュタルト崩壊たらいう一時の気の迷いに違いなく、常識で考えてみれば適当という適当な語自体になんらかの大陰謀が隠されているわけがない。世の中なんでも突き詰めて考えてみて意味が出てくることばかりではないのだ。人生時には適当が大事であり、適当に流すべきことはやっぱりあるのである。いやいや、私も今回はちょっと適当なアイデアで適当に書きはじめ適当に書き上げてしまった気がするのだが、せめてこうして適当な結論を付けたところで終わっておくのが適当というものだろう。適当でごめんにゃ。読みにくくてごめんにゃ。猫語でごめんにゃ。にゃんにゃん。