誰かが言ったように、未来への切符はいつも白紙であり、だからして予知予想は誰にとっても難しい試みである。単なる思い付きを予言として口に出してしまったような場合はともかく、未来の誠実な予測、それはもう精一杯の情報収集を行い、莫大な手間と緻密な考察の末行われた最善の予測だったはずのものが、あにはからんや突然のブレイクスルーや小さな偶然の積み重ね等々によってまったくの大ハズレに終わったとして、ところが一方そのことを後になってあげつらうためには大した知恵は必要ない。珍妙にさえ思える予想に苦笑してしまうことも多いのだが、よく考えてみればこれは未来と過去との初手から決まった勝負ではある。我々はこれが大きなハンディキャップがついた戦いであることを忘れないようにして、過去の予測を正当に理解し、評価したいものである。要するに、今年の五月ごろに阪神タイガースについて書かれたさまざまな事どもを今読んだとしても、笑ったり泣いたり憤激したりしてはいけない。
そういう「過去の予言の評価」の一例になると思うが、このお盆、里帰りをして本棚に「こどもカラーずかん」なる図鑑を見つけた。小学生低学年向けの写真の多い学習百科事典のようなもので、私がその年齢のときによく読んでいたものである。大阪万博、これは花博ではなくてその前に千里で行われたエキスポ'70のことだが、そこからの記事が最新ニュースのように扱われているので、私の生年('71年)を考えるとやや記事が古いようだ。たしか、年長の私のいとこから全巻を譲り受けたものではなかったかと思う。
その一冊、「えねるぎー・えれくとろにくす」なる巻をぱらぱらとめくっていて、こういう記事に出会った。未来のホームコンピューティング(という言葉で書いてあるわけではないが)を扱ったもので、女性がモニター付きの机に向かってキーボードを操作している。記事にいわく、彼女は自分の家にいながらにして、料理のレシピを検索し、利用しているところである。技術の進歩によってこれがいつの日にか実現するだろうということなのだが、つまりこれは現在のインターネットの普及を見事に言い当てているのではないか。買い物でもなく銀行取引でもなくまた天気予報というようなリアルタイム情報でもなくて、レシピという固定した情報のダウンロードをしているというところが、なかなかニクい。ウェブというものは、確かに基本的なセンでそういう感じの物である。
ただ、記事をよく読むと、この的中具合はやや割り引かねばならない。記事に添えられたイラストにあるこのキカイは、実は厳密な意味では「パソコン」でない。絵の中で女性が操作しているこれは、どこかネットワークの先にある巨大なコンピューターの一部、言葉としては「端末機」に過ぎないのだ。おそらく、当時は今のようにコンピューターそのものが家庭に持ち込まれるほど、小型で安く信頼性の高いものになるとは考えられていなかったのだろう。いや、いずれそうなるとしてもそれはもっとずっと先のことで、まずは政府か電電公社でもなければ設置できないような巨大で高価なコンピューターが中央に置かれ、ユーザーは家庭からこの装置を直接使用するというような、まずそういう形でコンピューターが家庭に入ってくるという想像がなされていたに違いない。
パソコン周りの進歩は急速なので、予想と評価のサイクルは短い。五年ほど前だろうか、読んでいたコンピューター雑誌に今後携帯コンピューターがどういうふうになってゆくか、予想をしたエッセイがあった。電子手帳やノートパソコンといったものが、技術の進歩とともに今後どうなるのか、未来の二つの顔が提示されていた。
(1)記憶装置が大容量で、信頼性が高く、安いものになってゆくので、人々は自分の情報をすべて入れたノートパソコン(ないしそれに類するもの)を持ち歩くようになる。
(2)ネットワークが高速で、どこでも使えて、安いものになってゆくので、人々は自分の情報をネットワークのどこかに置いておけば、それを世界中どこでも自由に取り出すことができるようになる。
現実にはこのどちらかということはなくて、この中間になるのだろうが、まずこの予想は基本的には正しい。他人の侵入を受けたり物理的に盗難したりといった危険性を度外視すれば、自分の必要な情報がどこにいても取り出せることは、取り出せないよりはずっといいに決まっていて、だからしてこっちに向かって進歩は続くだろう。そして確かに今になって現実を見ても、これでうまく現在を予想できている気がする。あえて言えば、どちらかといえば(2)のほうに寄っている感じだろうか。
ところが、ここに語られていない、そして、私がその時もっとありそうに思えた未来図は、こういうものだった。
(3)頑丈、高速、大容量のリムーバブルメディアがどこにでもあるようになって、かつハードウェアの価格が下がるので、人はどこでも自分のメディアを入れるだけで、そこを自分の環境にすることができる。
つまり、こういうことである。昔、システムはフロッピーに入っていた。マッキントッシュも最初の方はそういう感じだったらしいのだがさすがにこれは使ったことがなくて、例として挙げるべきはDOSやらそういったもののことだが、要するにフロッピーを入れてコンピューターの電源を入れると、コンピューターがフロッピーからシステムを読み込んで起動するのだ。初期設定や使うアプリケーションソフト、自分が作業して作ったデータはすべてフロッピーに書き込まれていて、普段自分はフロッピーいちまいを持ち歩いているだけでいい。どこにあるパソコンでも、それを入れて起動すれば自分の普段使っているものと変わらず作業ができる。ここではコンピューターは非常に安く普遍的なものなので、誰のものということもないパソコンが、駅の構内やら飛行機の座席やらに備え付けられているのである。バックアップ機能のついた昔のファミコンのカセットを持ち歩いていると思えばよい。そういえば、あの頃は誰もがファミコンを持っていた。
ところがどうだろう。もちろん世の中はそういうふうには行かなかった。何か一つの規格のパソコンが勝利を収めるということもなかったし、第一フロッピーディスクのようなリムーバブルメディアがその頃からまったく進歩していないような気がする。フロッピーの後継となるはずの大容量高速高信頼性のどこにでもあるドライブは、ハードウェアメーカーみんなが狙っていたはずなのに、ついに世に現れなかった。みんなが狙っていたということが逆にどうにもならなかった理由なのかもしれない。MOもPDもMDもリムーバブルハードディスクも、ZIPもスマートメディアもメモリースティックも、そのほか私が忘れているいろんなドライブが、どれも天下を取れなかったというのは妙なものだ。いや、どうもCD-Rがそうだといえばそうなのだが、ご存知の通りアレはちょっとこういう目的に使うものではない。
私の予想がつたなかったことは認めるとして、今や死屍累々という感じもするリムーバブルメディアとして、今の私が一番使っているのは何かというと、笑うべし、実はフロッピーディスクである。フロッピーもフロッピー、懐かしや1.4メガバイト、2HDの3.5インチフロッピーディスクだ。アイマックが出たときに「もうさすがにフロッピーは終わりだよね」と思って何の疑問も湧かなかった、アレを使っているのである。理由は簡単で、私が会社で使っているパソコンにはフロッピーディスクドライブしかついていないのだ。いや、もちろんハードディスクはあるし、インターネットにも繋がっているが、ほら、あるじゃないですか、会社の昼休みやなにかにコチョコチョと書いて、それを家に持って帰りたいような状況が。ごほん。つまり、そういうときにフロッピーディスクドライブというのは大変重宝なのである。
ウィンドウズのパソコンにはまだ大抵装備されているフロッピードライブだが、マックではもう全然無視されているので、自宅のマック用にUSBのフロッピードライブを買った。電器屋を三軒も回らされたうえに一万円もして泣きそうになったが便利なので後悔はしていない。1.4MBだって私の書きかけの雑文と最近のメールとアイデア帳くらいならいくらでも入るのだ。この普遍性と十分な容量は、確かに他のメディアの進出を阻んで、安定した地位を得ているのかもしれない(マック以外の世界では)。とまあ、そういうわけで、今しばらくの間、フロッピーディスクはなくならないと予想しているのだが、果たしてどうなるだろう。この予想は、外れてもらったら困る。